少年歳三
二度の丁稚奉公




明治四十年の上野広小路・松坂屋



【歳三、丁稚奉公へ】

歳三は母の病没後、兄・喜六夫妻・姉・のぶらに養育された。
当時は長男が家督を継ぐのが当たり前で、次男以降は他家に養子にでるか商家に奉公にでるかが大体の身の処し方であった。
歳三も四男として生まれたのでこれは例外ではなく、「自分の将来を自分で切り開かねば生きてゆけない」という厳しい現実が待っていたのである。
そういった意味も多分にあって歳三は十一歳の時、丁稚奉公に出される事となった。


奉公先は江戸でも一、二を競う大呉服屋の「伊藤松坂屋」だった。
松坂屋は丁稚といえども敷居が高く、店に知り合いでもいなければ簡単に奉公できるものではなかったらしいが、ここは弟を不憫に思っていた兄・喜六がせめてもの気遣いで「せっかく出すなら大店
(おおだな)がいい」、と松坂屋の大番頭筋に頼み込んでのことではなかろうか。
現在も上野にある「
松坂屋百貨店」の前身であり、ちょうど上野広小路に面した現・本館のある一帯に店舗があったという。

松坂屋がどれくらい老舗かというと歴史書が一冊書けるほどの大店で、
伊藤次郎左衛門を代々襲名した。
名古屋商人の首座三家衆と呼ばれた
関戸哲太郎内田忠蔵とともに活躍した。
伊藤家の遠祖・
伊藤蘭丸祐広(すけひろ)は織田氏に仕え、天正元年(1573)三好征伐に従軍にて戦死した。
その子の
祐直は、尾張国主・松平忠吉の城下町清洲に居を構えたが慶長十六年(1611)築城遷府に伴い、いわゆる「清洲越し」となり、名古屋本町に出て、呉服太物問屋を開業し、名を「伊藤屋」と称したことに由来する。

さて奉公に入った歳三はどのような仕事をしていたのかというと、
『土方歳三と歩く』(野田雅子・久松奈都子共著)にはこうある。

---奉公人は大きく四つに区分される。
奉公に上がる事を「登り」と呼び、初登り、二度登り、三度登り、四度登りまであって、初登りは八年、二度、三度登りは各六年、四度登りでさらに四、五年勤めて番頭格、支配人になる。
伊勢商人の職制によく似ていて、これを見習ったものだろうということだ。
歳三は文字通り新入りの丁稚だが、それでは初登りの一年目は何を仕事としていたか。
社史によると店のたばこ盆・火鉢のそうじ、灰吹、大八車のそうじだった。
歳三は来る日も来る日も黙々とたばこ盆をそうじして、年功序列の厳しい中でこき使われたはずだ。
八年を耐えて勤め上げたところで初めて帰宅が許され、自宅待機をさせられる。
つまり、「モノ」になる見込みがあるなら再度奉公を許され無事二度登りが出来るが、だめならそのままお払い箱なのである。---

松坂屋界隈には上野寛永寺をはじめ寺院が多くあり、諸宗御法衣の十三宗四十八派のすべての僧衣や御家人の羽織、袴もすべて取り揃えていた。
丁稚といえどもこれらをすべて勉強せねばならなかったであろうし、子供には大変な仕事であったはずだ。

丁稚奉公というものは忍耐力がなければつとまらない。
「お大尽さま」の土方家に生まれて、ややぼんぼん育ちの歳三にはこうした地道な「修行」は少しばかりつらすぎたのか、あるいははじめからやる気がなかったのかどちらかはわからないが、後の剣術に対する情熱を見れば後者であったような気が管理人はする。

そして…歳三は溜まりに溜まっていた不満と憤りを爆発させる日が来る。
一向に仕事がこなせないのを番頭からこっぴどく怒られ、おまけに叩かれて大喧嘩をした挙句、店を飛び出し、江戸から日野の九里(40キロ程)の道のりを歩いて帰ったという。
徒歩以外に移動手段のなかった当時、大人の足でも十時間かかる距離を子供の足で帰っているのだが、その健脚ぶりは後年の行商時の歳三の移動範囲を彷彿とさせるものがある。
結局、最初の奉公は一年足らずで失敗に終わる。


最初に味わう辛酸は歳三にとってみじめなものであったに違いなく、家へと戻った歳三を当然兄・喜六は烈火のごとく叱りつけた。
兄がもう一度、松坂屋へ侘びを入れ、歳三を戻そうとしたものの、頑として歳三は聞き入れなかった。
もうこの頃の歳三の心の片隅にも奉公する気が失せていたのであろう。
ちょうど歳三が奉公にいっていた頃、生家が洪水で流されてしまったこともあり、自分の居場所について歳三も悩んだ事だと思う。
すべてに打ちひしがれ無気力となり、前向きに生きようとはしないまま歳月ばかりが過ぎ去っていった。

思ったであろう…「俺は本当は武士になりたいんだ」と…。


【歳三、再度奉公へ】



そんな歳三の唯一の心の拠り所は姉・のぶの嫁ぎ先である佐藤彦五郎邸に遊びに行く事だった。
道のりにしてわずか二キロばかりであったから、泊まる事もしばしばあったという。
佐藤家の雑用などを手伝っていた様子で気さくに佐藤家の人たちからも受け入れられている人懐っこい歳三であった。

しかし土方家としては先々のことを考えると、いつまでも歳三を佐藤家に甘えさせているわけにもいかず、十七歳となった嘉永四年(1851)には再び奉公に出す事となった。

今度の奉公先は江戸の某家とも、大伝馬町の質屋、あるいは呉服屋ともされ、判然とはしていない。
しかし土方家には「歳三は女たちの誰よりも鋏
(はさみ)を使うのが上手だった」との伝承があり、どうやら二度目の奉公先も呉服屋であったのではないだろうか。
ここで歳三は再び失敗する。
なんと店の女中と「デキて」しまったのである。
『土方歳三遺聞』でも奉公時代のこの女性問題に触れ、 佐藤家では
---再び江戸の某家へ奉公した。すでに青年に達して来ると共に、資性の才気がきらめきだして、主家一統に大気に入り、搗てて加えて色白の美男子、すらりとした背格好、これをどうして江戸娘が棄てて置こう。同朋輩の一女から、その紅い袖口に引込まれてしまった。うす月夜の窓下で密語(
ささやき)合った結果が、日野の義兄へ相談と言うことになり、やって来た---『聞きがき新選組』
と、女に誘われたような表現になっているが、
『両雄士伝補遺』は、歳三を
---身丈五尺五寸、眉目清秀ニシテ頗(すこぶ)る美男子タリ---
と評しており、言い寄られたとしても不思議ではない。
前の一文で推察するように歳三はこの女性と所帯を持ちたかったのであろう、ともかく困った歳三は義兄・佐藤彦五郎に相談した。
無論、親の関知しない結婚など認められる時代ではなく、また家格の違いもあって、歳三は彦五郎の大反対にあってしまう。
「若気の過ち、男なら一度は体験すること」と懇々と説諭された。
女の手前、歳三は気前のいいことばかりの言い逃れで、抜き差しならぬ破目に陥っていた。
のらりくらりの返答に彦五郎が、「そんな素性もわからぬ女と一緒にさせるわけにはいかぬ、わしがひと肌ぬいで破綻にしてやる」
と意気込まれ、歳三は青醒めたというのである。
「談判に乗り出す」というのであれば歳三とて自分の不始末ぐらい自らケリをつけよう、と彦五郎を押さえて、歳三はひとりで別れ話を決着させたという。


かくして再度の奉公も失敗に終わったのである。



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