名宰相・田中玄宰



田中玄宰




田中玄宰墓所

田中玄宰(はるなか)は会津藩中興の祖といわれる五代藩主・松平容頌に仕え、家老として寛政の藩政改革を推進して、名宰相とうたわれた人物。

十二歳で家を継ぎ、のち、天明元年(1781年)には若年寄、ついで家老となった。三十三歳であった。
当時、会津藩の財政は多額の借財で破綻の危機にあり、農村は疲弊にあえぎ家臣の士気も低下していた。しかも近世最大の飢饉を目前にしていたのである。

玄宰は天明七年(1787年)に藩政改革を推進する。
●まず、郷村の支配強化と年貢の確保。
●次に農村復興の為の産子育成政策、廃田再興、荒地の開発、土地均等策。
●そして殖産興業として養蚕の奨励、酒造法と漆器製法の技術改良。
●さらには軍制改革による士気の高揚などとかなりの効果をあげた。

玄宰の改革によって藩財政は安定の方向に向かった。

また、国づくりには人づくりが大切と、学制の改革にも着手。総合学舎である藩校日新館を西出丸の西に構築、学問の伝統を確立していった。そして幕命による風土記編纂の総裁なども務め、
『新編会津風土記』が作られた。

世継の六代藩主・容住が28歳の若さで夭折してしまった後の文政二年、三歳の容衆が七代藩主になると、玄宰は幼君を補佐し藩政を支えた。
蝦夷地防備への出兵など、藩政の多難は続いたが、文化五年(1808年)、「城と日新館の見えるところに埋めよ」と言い遺して死去した。

玄宰のその遺言を守って、小田山山頂に墓が作られている。



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