京都守護職設置・拝命の経緯



【京都における幕府所司代の失権】


幕府は従来所司代を京に置いて近畿の庶政と朝廷の守護(監視)をしてきた。
京都所司代には代々譜代大名が就任し、幕府の威勢を京都で示す存在だった。
安政の大獄時も所司代が浪人・公家の処罰したが、威権は文久2年4月の
島津久光の率兵上洛時以降、大きく失墜。
所司代・
酒井忠義は、久光の上洛に合わせて浪士が所司代襲撃を企てたことに狼狽し、二条城に引き上げ、久光が兵を率いて御所内に入ることも阻止出来なかった。久光が寺田屋事件での浪士鎮圧の功により、滞京(京都守護)の勅命を得たのに比べ、京都市中では所司代・町奉行の威光は落ち、尊攘派浪士の天誅に手をこまねくようになった。
幕府は幕権回復のため、酒井を転任させ、大阪城代の
本庄宗秀を所司代に任じたが宗秀も安政の大獄の弾圧側にいたため、尊攘派はこれを実力で阻もうとした。朝廷も東下中の勅使・大原重徳、及び島津久光に、所司代更迭を周旋させた。


【京都守護職の新設】

幕府は対処策として、最初、新たな所司代として、門閥と兵力を備えた会津藩を任じようとしたが、所司代は元々譜代(=幕府の家臣)の職であり、親藩である会津藩の家格にあわないという理由で辞退された。そこで一橋慶喜・松平慶永は老中と相談し、7月27日、所司代の上により強力な京都守護職を新設することにした。


【松平春獄の説得】

文久2年7月28日、春嶽が幕府の内命を伝えた。
容保は不肖の身で大任は果たせないこと、また京都は藩地から遠く、習俗も知らないとして、これを固辞した。
将軍の命令と藩祖の遺訓
「家訓」を重んじるばかりに、失策を犯し、かえって徳川宗家、ひいては国家に累が及んではという内容であった。
しかし、幕府は承諾せず、春嶽は重ねて説得した。
春嶽の説得は…
「京都では薩摩藩がいつ暴発するかわからず、島津久光の叙任の動きもあり、不穏である。京都守護が手薄では対処もできず、守護職をお受けに成らなければ公武合体に至りかねる。いったん請ければ、いかような尽力もするので、とりあえず請けるように」
というものから、「
保科正之公(藩祖)が現在いれば、必ず請けるであろう」というものまでさまざまであった。


【条件】


会津藩家老・
横山常徳(主税)は、「守護職を請ければどのような支援もする」と約束した春嶽に対して、守護職拝命の諸条件を提示した。その中には浪士対策、将軍上洛、所司代人事があった。幕府は、所司代人事については、速やかに、会津藩の条件通り、別途任命することとし(守護職が所司代を兼任しない)、長岡藩主・牧野忠恭を登用することにした。
容保は度重なる説得に、ついに守護職奉命と心を固め、急使を国許に派遣した。

国家老の
西郷頼母田中土佐は、8月19日、急遽国許より上府して容保に対し「守護職奉命は薪を背負って火を救おうとするようなもの」と諫止したが、容保の決意にうたれ「君臣もろともに京師の地を死場所としよう」と決まる。

8月24日、会津藩は内命受諾を伝達し、閏8月1日、幕府から守護職に任命された。



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