会津藩御預浪士隊「新選組」





安政の大獄から桜田門外の変を経て諸藩の幕府への不満が満ち満ちていく中「攘夷」という言葉とともに「天に代わって悪を誅戮する」という「天誅」…という言葉が生まれ、諸藩の下級武士、郷士、浪士などによってこの名の下に京の都はまさしく殺戮の巷と化していた。
はじめは主に
●不平等な条約を朝廷の許可もなしに勝手に調印し、開港した
●安政の大獄によって有能な人材を死に至らしめた

などの理由から大老・
井伊直弼の関連人物、攘夷に反対する公卿などがその対象となっていたが、殺戮は日ごとエスカレートして目明かしにいたるまで殺害されていく状態にあった。

元々京都には幕府の京都での出先機関で京都警護を担う
京都所司代が置かれていたが、力が無く有名無実化しており、犯罪は日々増加の途をたどっていた。この絶えず起きる犯罪の下手人を捕縛することが威信が弱まりつつあったこの頃の幕府の重要問題となった。
しかし幕府の力で直に鎮圧してはさらに恨まれ幕府打倒を口にする者がより現れてもおかしくなく、雄藩の力が増大する可能性もあり、又、どこの者とも知れない犯罪者を幕府が処断すること自体が不浄なことなので、家臣の手を汚さないために、京都浮浪浪士団を雇おうことになった。
そもそもこの案を幕閣に建言し、己の秘めたる機略を達成すべく動いていたのが浪士組の産みの親でもあり、実情勤皇家でもある庄内・清河郷の郷士・
清河八郎であった。
幕府はこの案を渡りと船とばかりに採用、江戸近郊の名だたる道場などの腕利きを集めて浪士組が結成され、近くに上洛予定の十四代将軍・家茂の尖兵警護要員として上洛してきていた。

清河は幕府の募集で集めた浪士達を実は尊王の先駆けとして使おうという謀略を企図していたのだが、「生麦事件や英国公史館襲撃によって情勢不安定な関東周辺での行動こそが急務である」と、これに気付いた幕府側に逆に言いくるめられて京都から遠ざけられるも清河自体は己の策謀に自信過剰で「事成った!」とばかりに勇んで帰京。
後に江戸で
佐々木唯三郎らによって殺害されることになる。

しかし
芹沢鴨近藤勇らの一派は「幕府の募集に応じて加盟・上洛したのであって、未だ将軍が上洛する前に退京するのはおかしい」と京都に残留を固く主張し、清河らとは袂を分かち、会津藩御抱え浪士隊となるべく働きかけ、採用される。
この浪士団は後に「
新選組」と名づけられ京の治安維持の為に死力を尽くし日夜闘った。
新選組は壬生寺を屯所とし、きわめて厳格な掟「
局中法度」の下、隊務にあたった。
新選組が京を厳しく警備することにより、治安は目立って回復した。

池田屋騒動など数多くの修羅場をくぐり抜けた彼らと会津藩は親密な関係を築き、戊辰戦争勃発時も会津に副長・土方歳三をはじめとする隊士達がやってきて闘っている。

尚、新選組については当HP「
新選組館」にて詳しく記述してあります。ご参照ください。



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