歴代会津地方統治大名
歴代区分
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年 号
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年代
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簡略説明
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中世 |
至徳元年
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1384 | 芦名直盛が黒川城を創営し、 ここから600年の歴史が始まる。 |
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天文22年
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1553 | 盛氏黒川城主となる。 | ||
近世 |
天正17年
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1589 | 伊達政宗が黒川城に入城する。 | |
天正18年
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1590 | 蒲生氏郷会津藩主として黒川城に入城。 | ||
文禄2年
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1593 | 七層の天守閣完成。黒川を若松に改め、町割りを作る。また城の名前も鶴ケ城と命名。 天正18(1590)年、関東・東北を治めた豊臣秀吉の仕置きにより、蒲生氏郷の領地となった。領地の中心は氏郷の郷土蒲生郡若松の森にちなんで、「若松」と改められた。氏郷は若松城と城下町を本格的に整備し、楽市楽座を進めて産業業振興をはかった。ちなみに氏郷の妻は織田信長の娘。 氏郷の死後、家中不和から蒲生秀行は宇都宮転封となった。 |
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慶長3年
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1598 | 上杉景勝が会津入りし、出羽3郡、佐渡3郡を加えて120万石を領する。慶長3(1598)年、蒲生氏に代わって、越後の上杉景勝が封じられた。しかし、関が原の戦い後、上杉氏は会津などの領地を削られ、米沢に入った。 | ||
慶長6年
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1601 | 蒲生氏が再び会津に転封。 慶長6(1601)年、上杉氏に代わって、徳川方に味方した蒲生秀行(妻が徳川家康の娘)が再び会津に封ぜられたが、秀行の後を継いだ忠郷が世子のないまま死んだため断絶した。 |
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寛永4年
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1627 | 松山から加藤嘉明が会津に転封。 | ||
寛永16年
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1639 |
幕命により七層の天守閣を五層に改める。寛永4(1627)年、伊予松山の加藤嘉明が封ぜられた。しかし、嘉明の子、明成の時代に、家臣の出奔事件が起こり、加藤氏は会津地方の領土を没収され、石見に転封となった。 |
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寛永20年
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1643 | 明成会津40万石を幕府に奉還。 三代将軍家光の弟・保科正之が最上から23万石で転封。 |
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元禄9年
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1696 | 将軍の命により松平姓と葵の紋を用いる。 | ||
文久2年
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1862 | 容保京都守護職を命じられる。 | ||
慶応4年
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1862 | 伏見・鳥羽の合戦。 容保会津へ帰る。 奥州越列藩同盟成る。 鶴ケ城開城する。 |
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近 代
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明治7年
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1874 | 会津鶴ケ城が廃城となる。 | |
現 代
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昭和40年
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1965 | 鶴ケ城再建工事落成。 | |
昭和59年
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1984 | 鶴ケ城築城600年記念式典挙行。 | ||
平成2年
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1990 | 茶室麟閣を鶴ケ城本丸内に移築。 | ||
平成13年
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2001 | 干飯櫓・南走長家を復元。 |
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