京都守護職松平容保入京



【上洛】




金戒光明寺三重の塔



会津藩本陣跡


文久2年12月24日、攘夷奉勅の将軍上洛に先立ち、会津藩主・
松平容保京都守護職として入京した。
容保は関白・
近衛忠熙を訪ねてに天機(注:天皇の機嫌)を伺ってから宿舎である黒谷の金戒光明寺に入った。
この日、一里にも及ぶ守護職の行列を見ようと蹴上から黒谷の道の両脇は鈴なりの人であった。

※金戒光明寺・・・京都の人から「黒谷さん」と親しまれる浄土宗の大本山。1175年(承安5)、法然上人が比叡山の黒谷を下りて、ここに草庵を結んだのが始まりといわれる。建物は何回かの火災に遭ったが、そのたびに建て直されている。現在は、山門、経蔵、阿弥陀堂、御影堂、方丈、文殊塔(三重塔)(重要文化財)などのほか、18の塔頭寺院が立ち並ぶ。なかでも、蓮池院[れんちいん](熊谷堂)[くまがいどう]は、一の谷の合戦で平敦盛[たいらのあつもり]の首をとった熊谷直実[くまがいなおざね]の住房跡として知られる。また、2代将軍・徳川秀忠の菩提を弔うために建てられた文殊塔の本尊文殊菩薩と脇侍像は運慶の作といわれている。


『京都守護職始末』によると、これまで京都の人は、京都所司代や京都守衛にあたっていた彦根藩士が浪士を鎮圧できないので、腰抜けと嘲笑しており、幕府の役人とはそのようなものだと思っていたのが、容保の行列が立派であり、かつ関白のもとに立ち寄るという尊王の姿勢をみせたことなどに、心を安んじたとのことである。



【参内と孝明天皇の信頼】

明けて文久3年1月2日(1863年2月19日)容保は新年を奉賀するために上洛後初めて参内した。
小御所で
孝明天皇に拝謁した容保は、天盃(てんぱい:天皇から贈る酒盃)に加えて戦袍か直垂に作り直すように緋の御衣(ぎょい:天皇のお召し物)を賜るという武人として異例の待遇をえた。武人に御衣が下賜されたのは徳川幕府になって空前のことであった。容保が朝廷からこれほど厚遇されたわけは、前年の別勅使・三条実美ら東下の際に、幕府の勅使待遇の礼を改めることに尽力した功によるものだった。

また、孝明天皇の容保に対する信頼はこの後も揺らがなかった。天皇に馬揃えを披露したりもして絶賛された。
後に勤王の志士と呼ばれる人々を弾圧する立場に立ち、明治維新では「
朝敵」にされてしまった容保だが、上洛当初は朝廷での評判もよかった。


【公用方を設置】

容保は黒谷の金戒光明寺に陣を構えた。
入京後まもない文久3年1月7日には
公用方(公用局とも)を設置。
守護職の職務全般に関して、藩主を補佐し、仕事を処理する会津藩最高の諮問機関であり、政策立案機関。松平容保が特に英明ではなかったこと、また病弱であったことから公用方の体制が敷かれたという。
対外的には朝廷・幕府・諸藩関係者との折衝や情報収集をおこなった。




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