歴代会津藩主簡易年譜
藩主名 | 年代 | 主な出来事(簡易) |
初代・正之 | 慶長16年(1644) | 保科正之、2代将軍秀忠とお静(秀忠の乳母の侍女・小田原北条家浪人神尾の娘)の間に誕生 幼名幸松。秀忠の正室お江(織田信長の妹であるお市の娘)に隠しての出産だった。 |
慶長18年(1651) | 老中の依頼により、武田信玄次女の見性院、田安屋敷に幸松を引き取り養育する。(生母・お静も同行) | |
元和3年(1617) | 見性院の依頼で、信州高遠藩(3万石)藩主保科正光(武田の旧家臣)、幸松を養子とし、お静とともに高遠城にひきとる。 | |
寛永6年(1629) | 正之、江戸城に登城し、大御所秀忠に拝謁。 | |
寛永8年(1631) | 養父保科正光死去。家督を継ぐ。従5位下肥後守に任ぜられる。 | |
寛永11年(1634) | 3代将軍家光に供奉して上洛・参内。 | |
寛永13年(1636) | 17万石加増、出羽に転封。 | |
寛永20年(1643) | 出羽山形より会津に転封。 | |
正保2年(1644) | 正之、将軍世子・徳川家綱元服の理髪を務める。 | |
慶安4年(1651) | 正之、病床の将軍家光から世子家綱補佐を命ぜられる。 | |
承応元年(1652) | 軍令・10ヶ条、軍禁・15ヶ条、家中の制・14ヶ条、道中の制・13ヶ条を改定。 | |
明暦元年(1655) | 社倉制始まる | |
明暦3年(1657) | 武田氏の軍法を斟酌し、軍令10条・軍禁5条に改定。 | |
万治元年(1658) | 領内に倹約令出される。 | |
寛文4年(1664) | 正之、山崎闇斎を招き、論語を講義させる。 | |
寛文6年(1666) | 正之、先封加藤氏遺臣で軍学者・山鹿素行造言の罪を建言。 | |
寛文8年(1668) | 松平と称し、葵紋を用いるようにとの幕命を辞退。 正之、家訓15ヶ条を定める。 |
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寛文9年(1669) | 正之、致仕。 | |
寛文12年(1672) | 正之没。 |
二代・正経 | 寛文9年(1669) | 正経、襲封。郡村の蓄籾を増やす。 |
寛文10年(1670) | 若松大火。 | |
寛文12年(1672) | 正之没。 | |
延宝2年(1674) | 若松に学校(講所)開設。山崎闇斎、大学を講義。 | |
延宝8年(1680) | 弟正容を養子にして世子とする。 | |
天和元年(1681) | 正経、致仕。没。 |
三代・正容 | 天和元年(1681) | 正容(13歳)、襲封。 |
貞享元年(1684) | 会津藩主及び彦根藩主に月次式日登城のほか毎月両次登城命下る。(溜間詰登城) | |
貞享2年(1685) | 正容、幕命により上京して天皇即位の儀に参列。参内する。 | |
元禄2年(1689) | 町講所(町人の学問所)開設。 | |
元禄9年(1693) | 松平と称し、葵紋を用いるようにとの幕命を請け、会津藩主は代々保科姓から松平姓となる。 | |
元禄10年(1694) | 軍制を甲州流から河陽流に。 | |
元禄15年(1702) | 当主摘主は幕章に準じた葵紋、庶子は蕨手中に葵の紋とする。 | |
享保8年(1723) | 会津大風雨・大洪水の被害甚。 | |
享保16年(1731) | 正容没。※治世中、重ねて節倹令を出す。 |
四代・容貞 | 享保16年(1731) | 正貞(8歳)、襲封。 |
寛延2年(1749) | 農民、若松城下まで群訴。 | |
寛延3年(1750) | 正貞没(27歳)。 |
五代・容頌 | 寛延3年(1750) | 容頌(7歳)、襲封。 |
宝暦10年(1760) | 容頌、幕命により上洛して将軍の右大臣となるを謝す。参内して天盃を賜う。 | |
安永5年(1776) | 容章(容頌の叔父・後見役)の子容詮(かたさと)を養子とする。 | |
天明2〜4年 (1782〜84) |
天明の大飢饉。 | |
天明4年(1784) | 軍制を長沼流に改める。 | |
天明5年(1785) | 家老田中玄宰、年貢率引下げを実施。 | |
天明6年(1786) | 容詮の子容住(かたおき)を養嗣子とする。 | |
天明7年(1787) | 田中玄宰、藩政改革に着手(大綱を発表)。 | |
天明8年(1788) | 六行八則の令。四郡役所に目安箱を置き言路を開く。 | |
寛政3年(1791) | 初めて弓銃を用いて調練。初めて学校奉行を置く。 | |
寛政4年(1792) | 初めて追鳥狩を行う。 | |
寛政5年(1793) | 江戸に会津の産物会所を開く。 | |
寛政7年(1795) | 社家・修験・陰陽師・名主・郷頭等は刀の下緒の制を別にする。 | |
寛政9年(1797) | 嗣子容住、井伊氏を正室とする。 | |
享和元年 | 日新館開校。 | |
文化2年(1805) | 考課九等四善の格を定める。容頌(62歳)、没※治世中、重ねて節倹令を出す。 |
六代・容住 | 文化2年(1805) | 容住襲封するが、病没(28歳)。 |
七代・容衆 | 文化3年(1806) | 容衆(3歳)、襲封。財政窮乏により、家臣の俸禄を藩庫に納める。年貢を5分下げる。 |
文化4年(1807) | 会津藩士野村忠太郎、蝦夷視察の堀田摂津守に同行。 | |
文化5年(1808) | 幕命により蝦夷警備。 | |
文化7年(1810) | 幕命により江戸湾(西側の相州)警備につく。学制改革し、朱子学を中心とする。 | |
文化8年(1811) | 医学館を城下につくる。 | |
文政3年(1820) | 沿岸防備免除を願い出、許可される。 | |
文政4年(1821) | 将軍家斉の娘・元姫を正室とする。 | |
文政5年(1822) | 弟容敬※を養嗣子とする。容衆没。※公式で容敬は6代容住の3男で7代容衆の弟だが、実は水戸6代徳川治保の次男義和の子で生後極秘で養子になっていた。 |
八代・容敬 | 文政5(1822) | 容敬、襲封。 |
文政7年(1824) | 神道修行の奨励。学校教則を改定し、文武を振興。佐竹氏から正室を迎える。文武・兵学未熟者は家督をついでも奉職できない制度を定める。 | |
文政8年(1825) | 将軍の命により上洛・参内。天盃を賜う。 | |
天保3年(1832) | 天保の大飢饉始まる | |
天保5年(1834) | 前年の凶作にて、膳米2000俵を出して窮民救済。幕府に救助を求め、金1万4700両を賜う。 | |
天保7年(1836) | 凶作対策として、蕎麦・雑穀を植えさせる。この年、家臣の俸米給付できず。 | |
天保8年(1837) | 水戸藩主徳川斉昭藩内凶作にて米提供を乞う。2千俵提供。大塩平八郎の乱後の事情を視察させるため、藩士を下坂させる。 | |
天保13年(1842) | 江戸藩邸に学校奉行を置く。 | |
天保14年(1843) | 会津藩、将軍日光参拝の守衛につく。城内三の丸で練兵。美濃高須藩主松平義健6男松平容保を仮嗣子とすることを幕府に告げる。 | |
弘化元年(1844) | 水戸農民、会津に来て藩主斉昭の謹慎解除を訴える。 | |
弘化3年(1846) | 容保を養子とする。容保に手書きの教訓数条を与える。 | |
弘化4年(1847) | 房総警備の幕命。天保の大飢饉来の財政危機を理由に辞するが容れられず。藩士一瀬大蔵に江川太郎左衛門から洋式砲術を学ばせる。 | |
嘉永元年(1848) | 浦賀奉行浅野、房総警備の川越・忍・彦根・会津に意見を求める。 | |
嘉永2年(1849) | 幕府、川越・忍・彦根・会津藩に外国船入港の際の処置を協議させる。容敬、英国船来航時、幕府に対して沿岸警備を上申。また異国船打払令復活を海防不十分を理由に否とする。家臣救済のため貸付金帳消。 | |
嘉永4年(1851) | 江川太郎左衛門に大砲鋳造を依頼し、砲台に設置。容保、初のお国入り。 | |
嘉永5年(1842) | 容敬、没。 |
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