真の勤皇の証
孝明帝下賜の御辰翰
孝明天皇
攘夷過激派は、将軍に攘夷祈願と共に攘夷期日を決めるように迫る。
攘夷の期日を決めることなど出来ない将軍家を、江戸から京へ連れてくるように容保に勅令が下る。これは攘夷期日を決めず岩清水行幸途中(病気のためうやむやになった)に江戸に戻ったことを怒り、同時に邪魔な会津を京から追い出すための真木和泉による偽勅であった。
このことに心を痛めた孝明天皇は、宮廷の慣例を破り「この勅命は偽勅である。真偽を見極めよ。私はもっとも会津を頼りにしている」との旨がかかれた宸翰を届けさせた。
薩摩藩の高崎佐太郎が会津藩士・秋月悌次郎のもとを訪れ、ともに過激な長州藩を京から追い出すために提携を結ぶ。
1863年8月、中川宮手引きのもと、長州藩及び、過激派公卿を皇居から追い出すことに成功する。(七卿落ち)
世に言う八月十八日の政変である。
この成功を孝明天皇は大変喜び、再び宸翰と2首の和歌を届けさせた。
【孝明帝の和歌二首】
「和らぐもたけき心も相生の まつの落葉のあらす栄えむ」
「武士と心あはしていわほをも つらぬきてまし世々の思ひで」
このことによっても当時、会津藩が一番の勤皇藩であったことは周知の事実であった。
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