守護職に対する
会津藩の基本姿勢



【守護職を拝命するにあたっての藩の方針】


幕府の内命もあり、会津藩主・松平容保は、上洛前に、家老・田中土佐を始めとする家臣団を京都に派遣し、在任準備とともに、情勢の視察を行わせた。その報告を分析した結果、会津藩は京都守護が任務であることに違いないが、その目的は公武一和であり、そのためには天皇の攘夷の意思を尊奉することが専要だとした。
しかし、「攘夷は実行が難しいので、とりあえず開港した三港以外の通商は拒否し、時機をまって天皇をゆっくり説得するしかないと考えだ」という。

文久2年9月17日頃、松平容保は幕府に三港外閉鎖の建白書を提出。長崎・箱館・下田の三港はこれまでどおり開港とする。しかし、天皇の攘夷の意思を尊重し勅許を得ずに結んだ通商条約は改正し相手側が条約に違反し無礼・不敬を示した際には打払う。御殿山の外国公使館建設、兵庫・大坂の開港、外国人の江戸居住・遊歩などは禁止する。(会津藩の主張は、条約改正であり、条約完全破棄による鎖国攘夷を是とはしていない)
ただし、鎖国か開国かの国是は、将軍が翌年春上洛するまでに諸藩の考えを聴取し、天皇の意思をきいた上で、最終的に決定をする。また、この建白内容が許容されなければ、「自然、守護の任も立ちかね」、「容易ならざるこの度の大任相勤む見詰め更にござなく候」だと、強い決意(辞任の示唆)を示している。

開港の利点は認識しながらも、天皇の攘夷の意思を尊奉することが公武一和には肝要だとの見方からの、「折衷案」である。ただし、この方針は暫定的なものであり、建白書では、鎖国か開国かの国是の最終決定については、「重大事なので、将軍が翌年春上洛するまでに諸藩の考えを聴取し、天皇の意思をきいた上で、至当のところへ決定していただきたい」と幕府に委ねている。


【守護職の職権確立】


会津藩は、守護職の大任を受けるにあたって、
「格別に御威権の御沙汰これなく候ては必至とお勤め行き届かせられず候ことにこれなき候」
と考え、幕府に対して以下のような職権に関する申し入れを行っていた。

●「かねて御警衛の方々(注:所司代・町奉行など)はもちろん、中国西国の諸大名、万事ある節は、万事お家の節度に従われ候よう、かねて御台命(注:将軍の命令)あらせられ候ようなされたく」

●「らん外の権、お任せ下さり、諸家の野心暴発つかまつり候はば、速やかに御征伐人数取り進ませ申すべく、もっとも九家(注:京都守衛の九大名)の面々へもかねて御沙汰これありたく」

そうしたところ、守護職拝任直後には、永井尚志から、そのとおりになるはずだとの「御挨拶」を受けている。

実際のところは、容保上洛までにそのような沙汰はおりず、従来京都守護にあたっていた所司代と守護職の不協和を招くことともなった。
職権に関する沙汰が降りたのは、容保が上洛して7ヶ月以上たった、文久3年7月だった。
この遅れは、容保の上洛(文久2年12月)に際して委任の条件があったものの、翌3年3月に「将軍上洛し親しく守護したまえる」というので、将軍上洛まで議論をのばしたこと、いったん将軍が上洛すれば、会津藩は将軍の滞京による直接守護を勧めていたので、自身の京都守護に関する職掌について議論する必要もなかったからだと思われる。その証拠に、会津藩は、将軍帰府後の6月になってはじめて、職掌に関する幕命を得るために家老の田中土佐を江戸に送っている。7月の沙汰はこれに応じたものだろう。

会津藩の暫定的方針確立は、二つの結果をもたらした。

●会津藩に対する尊攘派の一定程度の好意の招来

●会津藩内部における京都守護の方策をめぐる突き詰めた議論の放棄:このため、(a)将軍不在時は上洛を求め、将軍在京のときは滞京を求める以外の基本方針をもちえなかった、(b)当初の京都守護方針が現状追認策となった(言路洞開を指す)、(c)旧京都守護体制の頂点であった所司代との不協和が生じ、任務遂行に支障が起った



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