松平容保の一族達
【兄弟】
長男 | 夭折 | |
次男 (長男) |
慶勝 |
尾張徳川家を相続 |
1824年3月15日生〜1883年8月1日没 江戸生まれ。 美濃高須藩主・松平義建の次男。 初名は慶恕、号は月堂。 嘉永2年(1849)宗家尾張藩を継ぎ、藩政改革に着手、成果をあげたが、安政5年(1858)安政の大獄で隠居させられ弟の徳川茂徳に位を譲った。 文久2年(1862)許され、翌年子の義宜が藩主となると再び藩政の実権を握った。 元治元年(1864)第1次征長で総督となり、長州に対し寛大な措置をとったが幕府は喜ばず、王政復古クーデターにかけて微妙な関係が続いた。 新政府の議定、明治3年名古屋藩知事。 |
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三男 | 武成 | 石見松平家を相続 |
四男 | 夭折 | |
五男 | 茂栄 | 高須松平家→尾張徳川家→一橋大納言家を順に相続 |
初め美濃高須藩主・松平義比となり、尾張家を継ぎ、ついで徳川(尾張)茂徳、隠居後さらに一橋家を継ぎ、徳川茂栄となる。 | ||
六男 | 夭折 | |
七男 | 容保 |
会津松平家を相続 |
八男 | 定敬 |
桑名松平家を相続 |
1846(弘化3)生-1908(明治41)没 伊勢桑名藩主松平猷の養子となって,1859(安政6)年に襲封。1864(元治元)年には京都所司代となって,兄の容保とともに京の警護に当たる。 1868(慶応4)年の鳥羽伏見の戦い勃発の折には,桑名へ援護を求めるが藩論が対立して収拾がつかず,結局将軍徳川慶喜とともに大坂を脱出して江戸に戻った。その後,強硬論を主張して,北越,会津と転戦し,最終的には箱館にまで転じたが,桑名藩の説得により新政府に恭順。1872(明治5)年に赦免され,1908(明治41)年に72歳で没。 |
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九男 | 夭折 | |
十男 | 義勇 | 高須松平家を相続 |
※義勇は容保の同腹の弟。よく定敬が容保の同腹とあるのは間違いで、定敬の母は宮崎と呼ばれた奥女中であった。
※女子については省略。(但し、容保と定敬の間に、妹「幸」がある。弘化2年生まれ。文久2年上杉茂憲に嫁す)。
【妻・女性】
X(照)姫(義姉) |
天保3年(1832)12月13日生まれ。 上総飯野藩主・保科正丕の娘。 10歳で8代藩主・容敬の養女となり、18歳で豊前中津藩主・奥平大膳大夫昌服に嫁ぐ。ほどなく離縁、江戸会津藩邸に戻った。 諡(おくりな)は照桂院。 |
敏姫(正室) |
天保14年(1843)9月生まれ。 容敬の5女。14歳で容保の正室となるが、19歳で死去。 |
佐久(田代孫兵衛娘) |
弘化4年(1847)12月8日生まれ。 長男・容大(慶三郎)、次男・健雄、五男・英夫、七男・保男の母。 |
名賀(川村源兵衛娘) |
弘化元年(1844)5月5日生まれ。 はじめ「喜代」。 長女・美称(みね)、次女、三・四男、六男・恒雄の母。 三味線を弾き、粋筋の感があったという。 |
【子供】
養嫡子 |
喜徳 | 10代当主。のちに離縁(明治6年8月)。 水戸徳川家・斉昭の19男で徳川慶喜の弟でもある。 はじめ余九麻呂。若狭守。侍従。 |
長女 | 美称(峯) | 明治2年(1869)3月31日生まれ。 はじめ厚姫。落城の半年後、御薬園にて誕生。 |
長男 | 容大 | 明治2年(1869)6月3日生まれ。11代当主。 はじめ慶三郎。落城の後9ヵ月後、大龍寺にて誕生。 のち斗南藩主。子爵。陸軍騎兵大尉。貴族院議員。 |
次女 | 夭折 | 明治6年1月生まれ。 |
次男 | 健雄 | 明治6年10月生まれ。 大正7年10月分家。 |
三男 | 夭折 | |
四男 | 夭折 | |
五男 | 英夫 | 明治8年10月生まれ。 山田氏へ。 |
六男 | 恒雄 | 明治10年4月生まれ。 明治45年5月分家。正ニ位。駐英大使。宮内大臣。参議院議長。 秩父宮勢津子妃の父。 |
七男 | 保男 | 明治11年12月生まれ。12代当主。 海軍少将。貴族院議員。 |
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