藩祖・保科正之




会津藩祖・保科正之公(土津神社蔵)


会津藩の直接の始祖である保科正之徳川2代将軍・秀忠の末男(四男)として1611年5月7日、江戸神戸白銀町にて生まれる。幼名は幸松。正之は奥女中、志津(静かも)を母に持つ妾腹の子であった。
秀忠の妻、お江与は側室を置くのを許さなかったため、正之は隠れて出産され、預けられて養育された。

正之は
武田家縁の保科正光の養子となり、養父の死後、高遠藩を継ぐ

お江与の死後、3代将軍・家光は正之を弟と認め、彼の欲の無い性格と誠実さを好み、とても信頼を寄せていた。
1643年に当時の会津藩主であった加藤明成は家臣の堀主水事件がきっかけとなり、40万石の領地を幕府に返還した。
その年の5月3日、正之は
会津藩に転封される。(ここで会津藩の藩祖となる)

正之は会津23万石と南山(今の南会津郡)・大沼郡・下野国塩谷郡の合計5万1千2百石余を私領同様として預けられた。(御三家の水戸家が28万石なので、これを越すわけにはいかなかったため。幕府の財政難の際など、返したりしている)

家光は4代将軍・家綱(11歳)の後見人を正之に任せ、亡くなる。(この時代からの政治は正之が行ったといって過言ではない)
後見人として、家綱の教育などにあたり、
「武断政治から文治政治」へと切り替えていった。
この治世ぶりが後年名君といわれる彼の働きの始まりでもある。

また、1657年に起こった大火では被災者救済に力を入れ、大火で被災した江戸城天守閣の再建にも「無用の長物にお金をかけるべきでない」と主張、断念させた。
人口増加により飲料水が求められ、
「玉川上水」の計画実行も行っている。

正之は藩主としても様々なことを行っている。
藩内の諸制度の整備として、家臣たちの心得を決めた
「家中掟」、交通・宿屋などの心得を決めた「道中掟」の制定。
年貢の公平な見直し、農業・産業の振興などの富国政策(
「社倉制」による米の備蓄。凶作の際などに有償で貸与・売却を行い、必要に応じて救済にあてた)。
東北守護としての軍制度の改革。殉死の禁止(幕府でも行い、全国的に禁止させた)。

また学問を好み、庶民の学問所
「稽古堂」の敷地を無税にするなど、学問の振興を図る。
社会福祉にも力を入れ、旅人へ配慮、病気の時は医療を施す、貴賎男女を問わず、90歳以上のものへの米の支給。
乞食対策として社会復帰の生業の習得などを行わせた。
 
正之は自分の考えを伝えようと、そして家臣達には徳川家に後々まで仕えるようにと家訓十五箇条を残す。

正之はのちまで「松平」を語らず(「松平」は「徳川」の一員の姓)保科を通し、家臣として忠実に幕府に仕えた。

晩年に至るまで神道を尊信し吉川惟足を師として専ら卜部家神道の伝を学び、道の奥義を極めた。
(無くなりかけていた卜部神道を再び栄えさせた)

1672年12月18日未明、病気のため逝去。遺言により神式で弔われ、土津(はにつ)神社に眠る。




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