幕閣における容保の発言力


【水戸藩武力制圧に反対】


幕府の日米通商条約無断調印に激怒した孝明天皇は水戸藩へ密勅(戊午の密勅)を下した。
これを水戸藩の幕府転覆の陰謀とする大老・
井伊直弼は密勅降下関係者、及び一橋派の徹底弾圧にのりだした(安政の大獄)
水戸藩は特に厳しい処分を受け、さらに密勅の返納をめぐって尊攘派が二派に分裂して対立した
(勅書返納問題)

藩論が返納と決まり、反対派(激派)への弾圧が始まると、追い詰められた激派の中心人物たちは脱藩し、薩摩藩尊攘激派の一部とともに、幕政批判と直弼弾劾を目的とする大老・
井伊直弼の暗殺を決行した(桜田門外の変)
事変後の処置に関する容保の建言が適切であったので、将軍に嘉納され、以後、幕府における容保の発言力が上がったという。

当時、容保(26歳)は在国だったが、幕府に促され急遽江戸勤となった。
当時の幕閣をリードしていた老中・久世広周・安藤信正らは、御三家の尾張・紀伊に出兵させて水戸藩を制圧することを考えていたが、溜間詰諸侯諮問時に、容保は、朝廷の信頼篤く、列藩にも嘱望され、御三家の一つである水戸藩を武力制圧することに強く反対したが、老中は「将軍の心は既に定まっている」として容保の意見を容れなかった。
ところが、数日後、十四代将軍・
徳川家茂が直々に容保を召した。将軍は容保の意見を容れて、武力制圧を中止したという。
この功績により、容保は
左近衛中将に昇官した。


【幕府と水戸藩の間を調停】

翌文久元年3月、容保は幕府と水戸藩との間を調停しようと、藩士・外島機兵衛秋月悌次郎に水戸藩の実情を探らせた。

外島と秋月は、館林藩や笠間藩を訪問して水戸藩に詳しいとされる者から事情を聞いた後、水戸藩に入り、斉昭派の
武田耕雲斎原市之進に面会した。武田や原は藩内の過激派が問題を起こして主家に迷惑をかけている事態を憂慮し、外島・秋月らに内情を話して調停を求めたとされる。外島・秋月から報告を受けた容保は、幕府に働きかけると同時に、家臣を水戸に往復させて恭順するよう努めさせたという。


【水戸藩の勅書返納問題】

桜田門外の変以降も、勅書返納(勅書は安政6年12月に藩主・徳川慶篤の指示で水戸領内の祖廟に納められていた)をめぐって幕府と水戸藩は勅書返上をめぐって対立していたが、万延元年5〜6月頃、争乱を予期してまで幕威を立てることの愚を悟った幕府は方針を一転させ、むしろ尊攘論者の崇敬する徳川斉昭らの処分を緩和することにより、公武一和の一助にしようと考えたという。10月には幕府は還勅猶予の許可を出していた。

勅書が江戸の慶篤の手に返ったのは、時勢がかわり、一橋慶喜(後の
徳川慶喜)が後見職に任命され、水戸藩尊攘激派の大赦も行われた後、文久3年12月である。このとき、幕府は勅書を公表し、慶篤に奉承させているので朝廷に返納はされていない。容保が幕府と水戸藩の緊張緩和に尽力し、これにより幕府内での発言力を増した。



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