永瀬 雄次
ながせ・ゆうじ




(1853〜1868)


白虎士中二番隊自刃隊士。
若松城下、郭外花畑、祐筆18石3人扶持永瀬丈之助二男。母くら子。幼い頃より英雄豪傑の話を聞くのが好きで、それらの英雄が通称の次に名があるのを羨み、英雄のように名が欲しいと父に懇願した。父も仕方なく「利勝」という名を与えたら大喜びで「利勝」と呼ばれなければ返事もしないというありさまだった。また砲術に関心が深かった。
戊辰戦争時、10月7日(旧暦:8月22日)敵が領内に入ると聞いて朝食途中で支度をし、隊長日向内記邸へ行き出陣を促した。
出陣には母の手製の草色の服を身につけ、朝食の膳には「勝栗・大豆・くるみ・松葉」を盛った盆が添えられていた。「いくさにカッてマメにかえってクルミをマツばかり」という意味の昔からの縁起ものであったが、雄次には達者で帰るつもりなどなかった。
戸ノ口原から間道伝いに飯盛山へ引揚げる途中、敵の集中弾を浴び重傷、親友の林八十治と刺し違えようとしたが林を刺し返す力は残っていなかった。
墓は福島県会津若松市一箕町飯盛山。
(自刃時16歳)

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社



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