山田 陽次郎
やまだ・ようじろう
(1841〜1873) |
会津藩士。 天保12年(1841)家老・西郷頼母近思の次男として生まれる。兄はのちの頼母近悳。嘉永5年(1852)、小姓頭・山田内蔵直方の養嗣子となり、山田家400石を継ぐ。 慶応4年(1868)の会津戦争では、朱雀寄合二番隊に属して越後へ出陣し、北越戦線を転戦した。 戦場が会津城下に移ると、救援を依頼するためか仙台へ赴いているが、一説ではこのとき実兄・頼母近悳を同道していたのではないかといわれている。 仙台で榎本武揚の艦隊に合して蝦夷に渡り、会津遊撃隊の頭取となって江刺方面で奮戦するも、明治2年(1869)5月に箱館五稜郭は開城となった。戦後、古河藩に幽閉。翌年の釈放後、4月まで増上寺で謹慎した後、7月4日に日光・今市で「雲井龍雄の政府転覆計画に共謀した」との容疑で逮捕され、10年の「准流徒罪(懲役刑)」の判決を受ける。そのわずか半年後の明治4年1月16日、箱館で獄死。享年31。青森市内の無量山正覚寺に葬られた。遺児1人、名を重郎。陸軍大佐まで栄進している。 墓は青森市の三内墓地にある。 参考 『幕末維新人名事典』新人物往来社 堀田節夫氏著 「山田陽次郎」『幕末・会津藩士銘々伝』新人物往来社 所収 |
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