石田 和助
いしだ・わすけ




(1853〜1868)


白虎士中二番隊自刃隊士。
若松城下、槻木町御側医・石田龍玄次男。母ちゑ子は5歳の時病没。継母に養育された。剛直に育ち、少年ながら酒を好んだ。また学もよくした。初代長崎県令で、後に福島県知事、衆議院議員を歴任した日下義雄は実兄。父・龍玄は農家の出身ながら血の滲むような努力をして町医師から側医師まで栄進し、ついに士分にまで取り上げられた人物である。日新館からの帰り道に従兄の石田昌訪宅に寄り、1人で酒を温めて飲むのを日課としたという。某日、日新館の生徒数人が「和助の家は百姓あがりだそうだな。成りあがり者は成りあがり者らしく、もっとしおらしくしていたらどうだ」と和助に対して侮蔑の言葉を吐いたとき、和助はことさら怒るでもなく「そのとおり、まさしく我家は父が一農家から身を起こし、血の油に火を灯すようにして医学を学び、ついに御側医となって士分を得ることができた。正真正銘の成りあがりだ。しかしおれは、それを誇りに思っている」と拘泥せず、「しかるに君らはどうだ」とまっすぐに相手を見つめて言った。「高位厚禄の祖先の家に生まれたことを嵩にきるばかりで、その恩すら忘れている。ただ無為に高禄を守っているのみで、祖先に辱しいとは思わないのか」 誰も和助に反論することができず、黙ってその場を去ったという。
戊辰戦争のとき、戸ノ口原を退却中に銃弾にて腹部を負傷しながらも飯盛山に後退し、飯盛山で自決することが決まり篠田儀三郎が文天祥の漢詩を吟じると、彼も苦しい息をしぼって最後の句をともに吟じた。吟じ終えると、「手傷が苦しければお先にご免」と作法どおり腹を一文字にかき切った。最初の自刃者だった。
墓は福島県会津若松市一箕町飯盛山。

(自刃時16歳)

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社




戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送