浮州 七郎
うきす・しちろう



(1839〜1868)


会津藩士。
天保10年(1839)、若松の城下に生まれた。兄に庄之助がいた。藩校日新館に学び成績優秀につき、江戸昌平黌留学を命じられた。
慶応2年(1866)、藩命によって京都に上る梶原平馬の顧問として同行した。当時の京都は一時小康を得た状態にあったときなので、七郎は間もなくして江戸の戻り再び勉学を続けることになった。
同4年正月、鳥羽・伏見において戦端が開かれた。幕府の軍は大敗を喫し、この急報に接した七郎は他の藩士らとともに急遽上京し、軍事参謀兼隠密の御用を仰せ付けられた。彼はただちに事後の防守策を計画したが、幕軍の士気は喪失していて収拾するすべもなかった。やむなく退軍し大坂に至ったが、その時すでに将軍慶喜は江戸に遁れた後であった。七郎はやむなく江戸に戻り、箱根の峻険を境として東西軍の決戦をこころみようと尽力したが、これもまた容れられなかった。七郎はしばらく江戸に潜伏したのち、日光に遁れて大鳥圭介の軍に投じ、その参謀になった。
当時、会津藩の山川大蔵が田島に在陣中であった。
閏4月21日、大鳥圭介はこの山川大蔵と連絡をとり、共に進撃して日光に籠る西軍を攻撃した。だがここでも幕軍には利あらず、七郎は胸に貫通銃創を負った。山川大蔵は七郎を助けようとしたが七郎は逆に大蔵の身を案じ、西軍の土佐兵の中には吾を知る者も多い、もし敵の手に落ちるようなことにでもなれば死後の恥になると言って速やかに首を斬り、携えて去ってくれるように頼んだ。西軍の追撃は急で、大蔵は暗涙を飲みながらその言に従って首を斬ったものの、これを携えて退く暇はなかった。七郎は胸部に敵弾を受け戦死。
享年31。

墓は福島県会津若松市門田町大窪山墓地。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社



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