横山 主税(常徳)
よこやま・ちから


(1798〜1864)

会津藩家老。
通称は主税。横山伝兵衛常明の二男として生まれ、兄・五八郎常元の養子となって家禄700石を継ぎ、のちに1300石となる。
横山家は代々家老職の家柄であり、安政2年(1855)江戸常詰の若年寄、同5年家老に進む。人物温厚で度量があり、幕末の多難な時期に江戸藩邸の中心となって藩務を処理した。当時、水戸の武田耕雲斎、宇都宮の戸田大和守とともに、江戸の「三家老」(会津藩横山常徳・水戸藩武田耕雲斎・宇都宮藩戸田忠至)の一人に挙げられていた。
文久2年、主君容保に京都守護職の内命があったとき、はじめ常徳は固辞することを進言したが、容保の固い決意を知るとこれに従い、公用局を設けて有為の人材を集めるなど職務の補佐につとめた。人材登用に明るく、秋月悌次郎(胤永) ・広沢富次郎(安任)ら将来会津藩を背負って立つ有能な若手をどしどし登用した。
容保との付き合いも長く、平素容保が最も信頼を寄せ、兄とも父とも思えるような人物であった。
在京中は常に君側に侍して難局にあたったが、元治元年5月に重病のため会津に帰った。
常徳は実子が早世したため、山川兵衛重英の四男、源八郎常道を養子としていた。しかし常道は25歳で没してしまったので、その異腹の子を嗣子として家を継がせた。戊辰の役で戦死した主税常守がこれである。
病床で禁門の変の報に接し、深く憂いつつ同年8月7日に没した。
享年数え67歳。智徳院殿勇建日照居士。
墓は会津若松市門田町大窪山。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
間島勲氏著「会津藩士人名小事典」歴史春秋社『幕末会津藩』所収




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