横山 主税(常守)
よこやま・ちから



   
(1847〜1868)


会津藩若年寄。
弘化4年(1847)山川源八常道の子として生まれる。
通称は主税(養父と区別して後の主税ともいう)。
祖父は家老の山川兵衛重英で、山川大蔵・健次郎兄弟は従弟にあたる。名家老として高名であった横山主税常徳(1000石)に嗣子がなく、当初常道が養嗣子になるはずであったが20代の若さで早世してしまったため、その子である常守が横山家を継ぐこととなった。養父の名を襲名して主税常守。
藩校日新館に学び、元治元年(1864)8月、病を得て京都から戻っていた常徳が逝去、わずか18歳で家督1000石を相続、養父の代わりに京へ上り御書簡勤として藩主容保の側に侍す。
慶応3年(1867)1月、将軍の名代としてパリの万国博覧会に赴く徳川昭武に随行して渡欧、ナポレオン3世や英国女王に謁見しつつ欧州各国を遊歴し、同年12月に帰国した。
帰国してみると故国はまさに一触即発の状況にあり、翌慶応4年正月ついに戊辰戦争が勃発、会津の山河にも戦雲が迫る。
はじめ青龍隊の中隊頭として三代口へ出陣していた常守は、ほどなく若年寄を命じられるとともに白河口の副総督に任命され、総督の西郷頼母とともに白河城に入る。彼の陣羽織は赤と黒の寄り九曜の文様が入っていて颯爽としていたらしい。
5月1日、それまで劣勢だった西軍は日光口から戦力を補強し、圧倒的に優勢な火器をもって白河へ攻め込んできた。総督西郷頼母は総勢2700余名にのぼる麾下大軍の数を恃み、特にこれといった防戦態勢を布いていなかったため、各地で味方は苦戦を強いられることとなる。常守も崩れかかる自軍を懸命に叱咤しつつ防戦につとめていたが、攻防の要所である稲荷山が危急にあると見るや自ら先頭にたってこれを死守すべく戦場を駆け、ついに敵弾に当たって22歳の若い命を散らせた。激戦の中にあって遺体を収容する余裕もなく、辛うじて首だけを従者の板倉和泉(一説には山室鉄四郎)が持ち帰って来たという。
若松で執り行われた葬儀は、これまで見たこともないほど盛大なものだったと柴五郎が後年に語り残している。この葬儀には容保・喜徳父子も出席し、常守の幼い遺児を容保が膝の上に抱き、「この子はとても主税に似ている。必ずや国の宝になろう。苦労などさせずによく養育するように」と涙ながらに語ったという。
墓は会津若松市門田町大窪山。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
佐藤一男氏著
「横山主税」『幕末・会津藩士銘々伝』新人物往来社 所収




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