伊藤 俊彦
いとう・としひこ




(1853〜1868)


白虎士中二番隊自刃隊士。
若松城下、川原町堀端家禄若干石5人扶持、新番組士・伊藤新作俊亘長男。母りよ子病没のため継母孝子に育てられた。 父は下級武士であったが、下士のわりに豊かで困窮者に施しをするのを喜びとしていた。
俊彦はそのような家で育ったので、温情真実、情深い方だった。
髪は惣髪にし、やせ型で背高く面長で鼻高、色白の美丈夫であり、やや口が大きいのが欠点であったが目尻の上がった男ぶりのいい美少年だった。祖先の系図を見ては「わが祖先の八郎光長殿は追鳥狩で一番獲物を二度も獲得して、君前で賞賜を受けた。そのような祖先を持ったことは私の誇りである。今や会津藩存亡のときが迫って来て、とても昔のように追鳥狩で練兵するような時代ではないが、敵がもし攻めてきたならば、私が一番槍を揮い、敵勢を討ち払って君恩に報いなくてはならん」と愛国の決意を示し、8月22日の出陣には非常な張り切りようだった。
飯盛山へ引揚げて来て砲煙上がる鶴ヶ城の天守閣を拝し、いち早く屠腹して死んだ。
墓は福島県会津若松市一箕町飯盛山。
(自刃時16歳)

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社



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