田中 土佐
たなか・とさ




(1820〜1868)


会津藩士。
家老・田中玄良の長男として文政3年(1820)8月1日、若松城下本一ノ丁に生まれる。はじめ丹後、後に豊太郎と称す。名は玄清。
田中家は、祖に藩祖保科正之に大老として仕え「名家老」の一人に数えられた田中正玄、5代藩主容頌に仕えて藩政の改革を成し遂げ日新館も創設した田中玄宰、などがいる名流。家禄は1800石で、屋敷は現・会津若松第2中学校にあった。
文政12年6月16日、父・玄良の死にともない家督を相続し、藩主容敬の側役となる。時にわずか9歳。天保7年(1836)、16歳にして番頭に就任、武官の最高位に達した。文官としては安政4年(1857)に若年寄、文久2年(1862)家老になっている。
この年、主君容保に京都守護職の内命が下り、西郷頼母とともに急遽江戸に上って守護職拝命辞退を建言したというが、一説では反対したのは頼母1人だったともいわれている。事実、土佐は容保の京都守護職拝命が決まるや、野村佐兵衛や広沢富次郎らを率いて京へ先発し、本隊到着前の準備を指揮している。
守護職在任中、藩主の名代などの大役を数々こなしたが、慶応4年正月の鳥羽伏見で会津藩を含む旧幕府方は大敗し、会津は朝敵の汚名を着させられてしまった。藩家老として同僚の神保内蔵助や梶原平馬らと連署した嘆願書を作成し、諸藩に朝廷への取次を依頼するものの、すべて不首尾に終わる。新政府そのものが、会津からの嘆願書を取り上げようとしなかったのである。
万策尽きて会津藩はついに交戦状態に突入、若き筆頭家老・梶原平馬を補佐し、城下の戦いでは甲賀町口郭門守備を担当。累代会津藩を支えてきた田中家の当主として土佐も前線に出て戦った。
畳を防御壁にして防いだが押さえきれず、甲賀町の郭門を突破された時点で「もはやこれまで」と土屋一庵宅で神保内蔵助とともに自刃して果てた。
享年49歳。

遺骨は戦後に息子の玄光が土屋邸の焼け跡から見つけ出し、天寧寺に葬ったという。


参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
前田宣裕氏著
「田中土佐」『幕末・会津藩士銘々伝』新人物往来社 所収




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