石山 虎ノ助
いしやま・とらのすけ




(1852〜1868)


白虎士中二番隊自刃隊士。
会津藩世臣200石井深数馬次男。母そわ子。同藩士150石石山弥右衛門の養嗣子となり本四之丁で育つ。
剛胆で記憶力に優れ5、6歳の頃百人一首を暗証し間違えなかった。
13歳のころのこと、某人宅で数人の友人たちと論談しすでに時刻も深更に及んだ頃、「深夜に御用屋敷の前を通ると奇怪なものを見るらしい」という話になり、クジに当った者がこれを確かめにいくこととなった。早速クジを引いたところ、虎之助が当たった。虎之助は顔色ひとつ変えずに雨のそぼ降る外へ出かけていき、ほどなく戻ってきて「何事もなかった」と報告した。友人たちは怪しみ、「実は出かけたふりをして、近所から戻ってきたのだろう」と言った。外は漆黒の闇であり、そのうえ雨までも降っている。とても平然と行って来られるものではないと誰もが思っていたのである。「そう言われると思って、証拠を残してきてある。これから皆で確認に行こうじゃないか」とのことであり、全員で灯りを持って御用屋敷にまで出かけてみると、果たしてその門柱に石山家の紋が入った小柄が刺さっていた。虎之助の剛胆さに感服しない者はなかったという。
敵軍迫るの報に出陣の嘆願書を出したが、その起草者は秀才井深茂太郎と虎之助であった。
飯盛山で自刃した白虎隊士が当初16名とされていた時、虎之助はこれに含まれていなかった。後の調査で虎之助の同所における自刃が確認されたので、飯沼貞吉と入替えで「十六士」に加えられたという経緯がある。自刃場所までは、飯沼貞吉を含む篠田儀三郎のグループとは別行動をとって至ったのであろう。飯沼貞吉より遅れて飯盛山に到着。自刃した。
墓は福島県会津若松市一箕町飯盛山。
(自刃時17歳)

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社




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