手代木 勝任
てしろぎ・かつとう
(1826〜1903) |
会津藩士。若年寄。 文化9年(1826)佐々木源八の長男に生まれたが手代木勝富の養子となり、通称を直右衛門(すぐうえもん)といった。佐々木只三郎、同源四郎は実弟。 1853年江戸の藩邸に勤め、1859年には監察、1863年には江戸詰となる。 常に藩主の側近として仕え、京都守護職時代勝任は公用人として渉外関係を担当し、新選組や所司代・町奉行の吏卒を指揮して攘夷派の浪士十数人を捕え、あるいは斬殺した。 会津藩外交の第一線に立ち、部下同僚の山川大蔵や小野権之丞ら藩士や新選組、実弟佐々木只三郎の指揮する見廻組、さらには伏見奉行所・京都東西町奉行所までに影響を与えた人物だった。 八月十八日の政変では秋月悌次郎を使者の役に任じ、中川宮らを裏から援助、池田屋事件では、新選組に出動を命じ、自ら会津藩兵の出陣を命じて尊攘派浪士の一斉検挙に成功。 蛤御門の変では病の松平容保を担いで戦闘におよんでいる。 また容保の代理人として参内、将軍慶喜から賞賜を賜ったこともある。 会津戦争では各藩への周旋役となり、奥羽越列藩同盟の締結を説いてまわる。 籠城戦では若年寄として奮闘、また降伏の使者として戦争終結を進め、 開城時には秋月悌次郎とともに米沢に使者に立つ。 降伏後は猪苗代で謹慎、その後新政府に仕えた。 左院少議生、香川県・高知県の権参事を歴任し、明治11年には岡山県吏となって区長を務め、正六位勲六等に叙せられた。 明治36年6月3日岡山市で病没した。 享年78。 墓は岡山市東山墓地。 参考 『幕末維新人名事典』新人物往来社 小島一男氏著『会津人物事典(武人編)』歴史春秋社 |
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