松平 照
まつだいら・てる



(1833〜1884)


9代会津藩主・松平容保の義姉。
上総飯野藩主・保科正丕の娘として江戸藩邸に生まれた。「熙」が本字だが、自ら「照」と書いた。
天保13年(1842)10歳でその頃実子のなかった松平容敬(会津藩8代藩主で、松平容保の養父)の養女となる。したがって、容保の義姉にあたる。
嘉永3年(1850)18歳の時、豊前中津藩主・奥平大膳大夫昌服に嫁ぐが間もなく離縁となり江戸の会津藩邸に戻った。
慶応4年(1868)2月の会津藩江戸退却令により、若松に下る。なお、綱淵謙錠編『
松平容保のすべて』(新人物往来社、1994年)には、「照姫が初めて会津の山河を見たのは、会津藩が江戸総引揚げで帰国した慶応4年の春であった」とあるが、これは事実に反する。照姫は、文久3年(1863)3月、生麦事件後、薩摩藩とイギリスとの対立が深刻化し戦争の危険性が高まった際、江戸から会津へ帰った。このことは、『稽徴録』所収の史料に、文久3年5月段階で、容保には書面で、照姫には直接口頭で御祝儀を申し上げるようにと記されていることでも明らかである。もっとも、照姫は、『會津藩廳記録』第1巻所収の史料によると、会津への帰国に強い抵抗を示したという。また、照姫の帰国にともなって、江戸在住の家臣の妻や娘も帰国を余儀なくされたが、彼女らに手当金や小荷駄賃を支給したために、藩財政に深刻な影響が出た。
会津戦争では籠城。奥殿の女中、若年寄格表使の大野瀬山や御側格表使の根津安尾に命じて、城中の婦人を指揮し、傷病者の看護と炊事に当たらせた。特に傷病者の食事については自らが監督したといわれている。
8月29日の長命寺の戦いでは負傷者が100数十人に達し、包帯が不足したので、収蔵されていた衣帯を解いてこれにあてたりとこまごました心くばりによって下の婦人たちもこれに倣い、将卒も感激して城内の士気も大いにあがったという。
家老・山川大蔵の妻とせ子は照姫の側にあって、傷病者の看護などにあたっていたが、砲弾にあたり、重傷を追いながらも照姫の安否を気遣いつつ瞑目している。
開城の後は、滝沢の妙国寺に入る。この途中、新政府軍兵士の中には揶揄の言葉を浴びせる者もあったが、付き従っていた婦人の機転で事なきを得ている。
明治2年(1869)3月、東京青山の紀州藩邸で謹慎。
11月、松平家の再興が許されたので、12月には松平家へ身柄を引渡され、次いで飯野藩へ移った。
諡(おくりな)は照桂院。

参考
前田宣裕氏著『会津戦争の群像』歴史春秋社
家近良樹氏編『稽徴録』思文閣出版



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