西郷 頼母
さいごう・たのも



   
(1830〜1903)


会津藩士。
西郷近思の嫡男、名は近悳、幼名は竜太郎、通称頼母。西郷家は、藩祖正之の養家である保科氏の血脈をひき、代々家老を輩出した家柄であった。それが故、若くして養子に入った九代藩主松平容保とは確執があった、とする説もある。
幼少から学問を好み、側役小姓頭、番頭を経て文久二年(1862年)33歳のとき家督相続して家老就任。
松平容保が京都守護職拝命のとき、田中土佐と国許より駆けつけ、「背中に薪を背負うて火中の栗を拾うが如く」と就任辞退を諌言。守護職就任に反対し続けた理由は、もちろん多くの書籍に記してあるように、時勢に対する認識や先見の明、逼迫した藩財政の状況、公武合体説に対する異見等々であろうことは想像に難くないが、その実、「藩祖以来、その血統の一員として君臨してきた名門家老職として、養子として松平家にやってきた容保との確執」(堀田節夫「西郷頼母」 『幕末・会津藩士銘々伝』新人物往来社 所収)がその根底にあったという。ために彼は禁門の変の直後の京へ上ってまで、守護職辞任を建言しているのである。しかしこのときの常軌を逸してるほどの強引な建言の仕方が容保ばかりではなく少なくない藩士たちの反感を買い、ついに家老職を「御免御叱」と解任されることとなる。
その後半ばヘソを曲げて国許で「栖雲亭」という草案に隠棲していた頼母であったが、鳥羽伏見の敗戦から戊辰戦争が勃発すると、家老への復帰を命じられ、最重要拠点である白河を守るべく白河口方面防衛軍の総督に任命された。実戦経験のない頼母を最重要戦線の責任者にしたこの人事には「藩内で浮いてしまっている頼母の名誉を回復させようとした容保の配慮」と見る向きもあるものの、単に名門西郷家老家としての序列が、意識として残っている長沼流軍学と相俟って出来上がった人事、と見るほうが自然ではないだろうか。結局、頼母の決定的な戦術ミスにより白河城は敵の手に落ち、列藩同盟軍は攻撃側の総人数とほぼ同数である680余名の戦死者を出すという大惨敗を喫している。
西軍が城下に迫った際には長男の吉十郎のみを伴って入城。西郷家の家族・老婦女子らは全員自害して果てた。
籠城後は、これまでの恭順論から一変して玉砕論を主張。「ここまできたら、藩をあげて玉砕だと、頼母の激情は憤然として、藩主(喜徳)と容保に切腹を迫り、家臣一同の殉死を発議」(堀田節夫氏著『西郷頼母』歴史春秋社)し、慌てて間に入ろうとした秋月悌次郎に対しては「軽者は、すっこんどれ」と刀に手をかける始末で、苦渋した梶原平馬や原田対馬らは頼母の「追放」を容保に進言、ついに頼母は「城外軍への使者」という「軽い役目」で城外へ出されることとなった。なお、この際には頼母暗殺の極秘指令すら出ていたという。
その後、榎本軍に身を投じて箱館に渡るが、箱館では特に戦闘には参加していない。どころか、外で女と暮らしていたとすら伝えられている。箱館降伏後に西郷から保科に改姓、館林藩に幽閉されたが明治3年に赦免、明治13年には容保が宮司となった日光東照宮の禰宜をつとめた。若松へ戻ったのは明治20年。
明治36年4月28日、「会津嶺の遠近人にしらせてよ 保科近悳今日死ぬるなり」という辞世を残して永眠。
享年74。

墓は福島県会津若松市門田町善龍寺。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
堀田節夫氏著『西郷頼母』歴史春秋社



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