中野 竹子
なかの・たけこ




(1847〜1868)


娘子隊長。
会津藩士・中野平内の娘。母は孝子、妹は優子。江戸和田倉門内の会津藩邸で出生。江戸の赤岡忠良に入門し、薙刀・剣道や習字を習う。
17歳の頃(文久3年頃か)、文武の師匠である赤岡大助が大坂の御蔵奉行に赴任する際、養女となってこれに同行する。しかし19歳の頃、赤岡が勧めた赤岡の甥との縁談を非常に嫌がり、実父に頼んで赤岡家と離縁した。
鳥羽伏見戦後、他の藩士たちとともに若松に帰り、米代二ノ丁の田母神兵庫の書院を借家として住む(中野家は江戸常詰だったので、若松には家がなかった)。このころ、会津坂下の道場で入浴中を覗き見した地元の若者を危うく斬り伏せるところであった、という有名なエピソードを残している。
戊辰戦争がおこると郷里に帰り、母孝子、妹優子とともに坂下(ばんげ)で児童に読み書き、薙刀などを教えていた。
慶応4年8月23日、西軍が若松城下に来襲すると、母こう子・妹優子とともに髪を切って庭に埋め、かねて他の女衆20人ほどとも打ち合せ済みだった川原町東端に駆けつけたが、西軍の来襲が急であったためか依田姉妹や岡村すま子ら数人しかおらず、尚且つすでに城門も閉って入城もかなわなかったため、照姫が立ち退いたという坂下へと向かった。しかし坂下に着いてみると照姫の件は誤報であったことがわかり、やむなく法界寺で一泊する。翌日、近辺に布陣していた陣将・萱野権兵衛を訪ね、従軍を要望するが「会津は婦女子の手まで借りねば戦えぬのか、と言われかねない」と拒絶された。しかし「それならば、ここで自害いたしまする」という彼女たちの必死さに萱野も折れ、翌日に城下へ向けて出陣する予定の衝鋒隊と行動を共にすることを許された。翌10月10日(旧暦:8月25日)衝鋒隊とともに越後街道を城下へ向けて進撃し柳橋(泪橋とも)付近で長州・大垣兵と激突、激戦となる。その激戦の中、敵弾を受けて戦死。首は妹の優子が介錯したとも、優子ら女では切落とせなかったのを農兵が切落として運んでくれたとも伝えられているが、坂下の法界寺に埋葬された。
辞世は「武士の猛き心にくらふれは 数にも入らぬ我が身なからも」。
墓は福島県河沼郡会津坂下町法界寺。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
清水理繪さん著「中野竹子」『幕末・会津藩士銘々伝』新人物往来社 所収




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