簗瀬 武治
やなせ・たけじ
(1853〜1868) |
白虎士中二番隊自刃隊士。 若松城下、本三ノ丁供番150石簗瀬久人次男。母八重子。容貌は色白の丸顔で、さながら少女のようであったというが、その気骨はまさしく硬漢会津藩士であった。ちなみに兄・克吉は思案橋事件に連座して処刑されている。母八重子は、その思案橋事件の首謀者であった永岡久茂の長姉。士気勇敢、弓術を得意とし、飛んでいる鳥を射落として賞賛を受けたこともある。 13,4歳の頃、父に従って本郷村に行く途中、小松の渡しの仮橋の上で武治らに道を譲ろうとした老農婦が誤って河中に転落してしまった。ちょうど大雨の後で、大川は水量が多く、流れは渦を巻くほどであった。老農婦はたちまち激流に飲まれてしまったが、これを見た武治はいささかも躊躇せずに河に飛び込み、人々が息を呑んで見守る中、見事に農婦を助けあげたのである。見守っていた人々で、これに驚嘆しない者はなかったという。 15歳のとき、たまたま若松城下で火事現場に遭遇した際には、頭髪が半分も焼け焦げ、着衣のあちこちが焼け爛れてしまうことも厭わずに、消火活動に挺身している。 戊辰戦争では出陣には伝家の名刀を父から授かり、存分に働いた。 戸ノ口原で戦い飯盛山で自決。 父の薫陶に応えたものであろう。 墓は福島県会津若松市一箕町飯盛山。 (自刃時16歳) 参考 『幕末維新人名事典』新人物往来社 宗川虎次氏著『補修會津白虎隊十九士伝』會津弔霊義会 他 |
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