高津 仲三郎
たかつ・ちゅうさぶろう



(1827〜1877)


会津藩儒学者・高津平蔵の三男として若松城下に生まれ、中原成業と変名、豪胆で武術に優れ、京都で武名が高かった。
鳥羽伏見の戦いの前、大坂へ向けて京を退去するに当たり、京に残存兵力を一兵も置かない事への危機感を感じた仲三郎は、家老らに「少なくとも300人くらいの兵をとどめて置くべきだ」と建言するが取り上げられず、後年に至っても憤慨がおさまらなかったらしく「我が老職にあれば、決して負けることはなかった。まったく馬鹿の下にあっては、戦争などできるものではない」という書簡を書き残している。
鳥羽・伏見の戦いで負傷、斯くの如き直情型の熱血漢であった仲三郎のもっとも有名なエピソードは、鳥羽伏見で負傷した会津藩士たちを芝の会津藩邸に見舞いに来た前将軍・徳川慶喜を面罵したことであろう。「鳥羽伏見で一死を顧みずに奮戦苦闘したのは、ひとり会津のみでござった。雲霞のごとき大軍であった旗本らは卑怯未練にも敵に背を見せて踏み止まる者もなく、ついに大敗北となり申した。これは大軍を見捨てられて江戸へお戻りになられた公のなせることが原因であり、そもそもは数々の御失策のためといえましょう。もはや幕府の末路もこれまででございます」という意のことを、屋敷中に響き渡るような大音声で言上したのである。さすがの慶喜も、これには顔面蒼白となって病室を退出するしかなかったという。

越後口の長岡城攻防では遊撃隊長として奮戦、戦後は戦死者の埋葬に尽力したが、越前藩士・久保村文四郎の圧政と埋葬拒否を憎み、束松峠で伴百悦らと同人を殺害、1876年(明治9年)の思案橋事件に永岡久茂の下に参加、市谷で斬首の刑となった。
墓は東京都新宿区市谷富久町源慶寺。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社

岩木晨氏著
「高津仲三郎」『物語り・悲劇の会津人』新人物往来社 所収



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