高木 盛之輔
たかぎ・もりのすけ



(1859〜1919)


会津藩士。
会津藩士・高木小十郎の長子として安政元年(1854)9月若松城郭内に生まれた。母の名は克子。幼名五郎。幼くして父と死別。
15歳のとき戊辰の役に遭遇し、護衛隊として藩主の側近を勤め、滝沢本陣と戸ノ口原の斥候伝令として活躍した。
戦後、猪苗代から東京に転送幽居され、翌明治2年1月、東京に転送された。
1877年(明治10年)西南の役に征討軍別働第二旅団参謀中佐・山川浩隊に属して、豊福に戦い、敵の逃れるのを追って宇土に至った。
4月14日、山川中佐は二個大隊を率いて敵累を衝き、初めて熊本城に連絡を通じて城中の将士に安堵を与え、さらに三船、木山その他に転戦、人吉城、鹿児島城を攻略、9月東京に凱旋した。「嗚呼足れり深き恨みもはるゝよの 月影清し苅萱の関」これが西南の役における盛之助の感詠であった。
のち司法官となり、根室・甲府・山形等の地方裁判所検事正を歴任し、従四位勲四等に叙せられた。明治45年に職を辞して福島市に閉居した。大正8年2月19日没す。享年66。青木善龍寺に葬られた。著書に『桜山集』(山川浩伝)をはじめ、佐川官兵衛父子之伝、沼沢道子伝、護衛記などがある。
墓は会津若松市善龍寺。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社

小島一男氏著『会津人物事典(武人編)』歴史春秋社



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