神保 修理
じんぼう・しゅり




(1835〜1868)


会津藩士。軍事奉行添役。
会津藩家老・神保内蔵助利孝(1200石)の長男。名は長輝、幼時は直登。藩校日新館に学んで秀才の誉れが高く、特に詩文に優れていた。長崎で学び、外国事情にも通じていた。 。
1862年(文久2年)藩主松平容保が京都守護職になると、主君に従って上洛し、軍事奉行添役(あるいは表用人だったともいう)として機務に参画した。また、命によって長崎に赴き外国の事情を知るとともに、広く西国諸藩の士とも交友を深めた。この長崎滞泊中、広く内外人に接し、特に長州藩の伊藤博文、佐賀藩の大隈重信などと交わって大いに得るところがあったという。修理が長崎に着いて間もないある日、某酒楼で宴会があり、それに出席してみると、たまたまそこに臨席している1人の青年武士が目に入った。修理はその武士が長州藩の伊藤俊輔(のちの博文)であると直感した。修理も伊藤もまだ互いに相手を識らない。修理は酒楼の中居にたずねてみると、「林宇一」とかいう男だという。どうも伊藤は藩籍をごまかし、姓名を変えているらしい。そこで意を決した修理は、突然、傍にあった杯を取って伊藤にすすめ、大声に「伊藤俊輔君、書生はもっと磊々落々、おおらかに行こうではないか。変名して小さくなっているようなけちな真似はよしたまえ」と叫んだので、さすが剛腹の伊藤も茫然自失、二の句がつげなかった、というエピソードがある。
また
慶応二年、外国事情の調査のためふたたび長崎へ向かい、翌年の同地で「高坂龍次郎」と変名した龍馬と会見をおこなった。
修理は龍馬から「会津にはおもいがけぬ人物にてありたり」との評価をうけている。
徳川慶喜が大政を奉還し鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗退すると、修理は将軍が大阪城に拠って抗戦することの非を説き、速やかに東帰恭順すべき旨を進言したという。このため、慶喜と容保らは大坂に大軍を残したまま、密かに江戸へ帰ってしまったので、浅羽忠之助とともに江戸に戻った。修理と親交のあった勝海舟は、修理の身を案じて将軍・慶喜を動かしたため過激な主戦派の藩士たちは、かえって強く容保に修理の処断を迫った。
一時の幽閉後、藩論の分裂を警戒した容保から鳥羽伏見戦の責任を取らされる形で切腹を命じられた。
慶応4年2月13日江戸三田藩邸にて自刃。
30歳だった。

余談だがのちに父・内蔵助と妻の雪子も会津戦争のさい、自刃して果てている。
墓は東京都港区芝白金興禅寺にある。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
綱淵謙錠氏著『戊辰落日』文春文庫
間島勲氏著「会津藩士人名小事典」歴史春秋社『幕末会津藩』所収



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