西川 勝太郎
にしかわ・しょうたろう




(1853〜1868)


白虎士中二番隊自刃隊士。
若松城下、郭内本二ノ丁物頭300石西川半之丞長男。母せき子。
指導力あり、その言には説得力があった。智恵が働いて文武の道に精進するを喜びとした。
西軍が若松に迫り、藩主容保に従って滝沢本陣に出陣したときのこと。隊を二分し、一方は前進して敵を迎え撃ち、一方は本陣に残って藩侯の護衛に当たるべきである、という意見が出た。しかし勝太郎はこれに決然と反対し、「敵は大軍である。ただでさえ寡軍の我隊を二分してしまっては、攻防いずれにしても益するものは何もない。全隊一丸となってこれに当たるべきである」と言ったので、隊長以下皆これに同意し、全員で戸ノ口原へ出陣することになった。そして翌日の撤退時においても、疲労の極みにあった隊士たちのほとんどが「事ここに至っては、自刃して臣節を全うするのみ」という意見に同意しかけた時、「いまだ弾丸は尽きておらず、刀も折れていない。我々はまだ戦える。死ぬのは、城が落ち、殿が殉ぜられたることを確認してからでも遅くはない」と全員の気を奮い立たせている。
飯盛山中腹で燃え上がる城下町を遠望した時、「今こそ義に殉ずべきときである」と最終決断を下したのも勝太郎であった。白虎士中二番隊の実質的な指導者であったかもしれない。

墓は福島県会津若松市一箕町飯盛山。
(自刃時16歳)


参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
小島一男氏著『町名歴史散歩』歴史春秋社



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