鈴木 式部
すずき・しきぶ



(1845〜1871)


会津藩士。400石。
鈴木家は代々会津松平家に仕えたが、式部の父は早く亡くなったので幼くして家を継いだ。
学を好み詩文に巧みで、藩校日新館も優秀な成績だったので、江戸遊学を命じられたほどだったが、途中、物頭を命じられて京都の守備についた。
式部は天性の美少年で、藩内では「会津敦盛」と称していたが、京都の会津藩本陣のあった黒谷光明寺を出て岡崎村を兵を率いて通る英姿は、京の女性の憧れだったらしい。某少女などは勤務中でもあまりにも親しく言い寄ってくるので、「困る」とその親に抗議するほどで、式部もかなりの堅物であった。
京都守護職時代は物頭、幕臣の林正十郎が仏式兵学校を開いたとき、19歳で学校奉行副役になるなど、俊才ぶりを発揮する。
江戸総引揚げ後は若松へ帰って学校奉行添役として白虎隊士らの教育に当たり、戊辰戦争の籠城戦で戦ったが、戦後、横浜の商家で貿易を勉強中、その商家の未亡人に迫られ、夜逃げする始末だった。
海外留学を志し、若松へ帰って金をため洋行しようとしていた矢先、賊会津藩士に官費支給は不可能と金策に走るが、そのなすこと法規の外に逸脱し、ついに貨幣贋造の嫌疑を受け、収監されて獄中で没した。それも女性からの密訴だったという。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
宮崎十三八氏著『悲劇の会津人』新人物往来社



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