諏訪 常吉
すわ・つねきち



(1833〜1869)


会津藩士。
藩主松平容保の京都守護職時代の公用方勤務、戊辰の年江戸引揚げ後渉外方として奥羽列藩同盟を進めるため仙台で遊説中、若松城が包囲されて帰城できず。
明治元年9月22日、会津鶴ヶ城開城。このとき仙台領にいた常吉は、会津帰参の退路を寸断されて道中はままならず、やむなく榎本艦隊に乗込み蝦夷へ向かう。同行の会津藩士70名ほどと「会津遊撃隊」を結成し、その隊長に就任。陸軍奉行並・土方歳三の指揮下に入り、第一列士満(レジマン)第二大隊・伊庭八郎隊長に属する一個小隊を編成した。
翌年6月9日(旧暦:4月29日)の矢不来の激戦で敵弾が腕から胸へ抜けるという重傷を負って箱館病院へ後送、収容されるが、この戦いの直前に最前線から引揚げてくる際「もとより戦を好むものではないので当地を引揚げるが、やむをえない状況に立ち至った場合は武器をもってお相手いたす。その際は御容赦されたい」という意の「官軍」宛ての置手紙を残したことが知られている。箱館攻略軍の総責任者黒田了介(清隆)がこの手紙の存在を知り、「諏訪に和平の意志あり」として箱館病院の諏訪を密かに訪ねて五稜郭への降伏斡旋を依頼するが、重傷の床にあった常吉は、後事を小野権之丞に託して永眠。
享年37。

墓は函館市実行寺。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
好川之範氏著
「小野権之丞」『幕末・会津藩士銘々伝』新人物往来社 所収




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