山川 捨松
やまかわ・すてまつ




(1860〜1919)


万延元年(1860)2月24日、会津若松本二ノ丁に会津藩士・山川尚江重固の末娘として生まれる。幼名、咲子。長兄・浩は会津藩家老から陸軍少将。次兄・健次郎は東大や京大の帝大総長を歴任。
慶応4年(1868)8歳の時に会津戦争を経験、籠城中は傷病兵の看護や炊事、弾薬作りに精を出す。このとき、城外から大砲を撃ち込んでいたのが後に夫となる薩摩藩大砲隊の大山弥助(のちの巌)。鶴ヶ城開城後、塩川での謹慎生活を経て家族は権大参事となった浩とともに斗南へ移住したが、幼い捨松のみは箱館の知人宅へ預けられる。
1871年(明治4年)第1回女子留学生5名の1人として津田梅子らと我が国初の女子留学生となり渡米。母親がこの際に「捨てたつもりで待つ」という意を込めて咲子から捨松に改名させたという。
コネチカット州ニューヘイブンのヒルハウス高校を経て、明治8年にニューヨーク州ポーキプシーのバーサーカレッジに入学。明治15年の卒業式の際には卒業生代表の一人に選ばれ「イギリスの日本に対する外交政策」という論文を発表、講演した。さらに2ヶ月間ニューヘイブン病院附属のコネティカット看護婦養成学校で学び、同年の11月21日帰国。翌明治16年11月8日、陸軍卿・大山巌の後妻となったが、この縁談には当初兄の浩はじめ山川家としては断固謝絶のつもりであった。しかし、仲介した宮内少輔・吉井友実や農商務卿・西郷従道らの渾身の説得に、ついに山川家も軟化、最後は捨松自身の決断で結婚を決したという。
翌年、戊辰戦争で薩摩藩大砲隊長であった陸軍大臣大山巌と結婚、賢夫人として聞こえた。その後、「鹿鳴館の華」と謳われつつ、慈善バザーなどを開催してその売上げを病院に寄付したり、「日本赤十字社篤志看護婦人会」の設立発起人となったりして日本の看護そのものの知識や方法の普及に尽力した。明治21年、宮内省からの依頼により「洋化顧問係」となる。いっぽう、一緒に米国に留学した津田梅子の教育活動を背後から強力に援助し、津田塾大学の創立に大きく貢献した。日清・日露戦争の間は陸軍大臣の夫人として「日赤篤志看護婦人会」や「愛国婦人会」の理事となり、軍人遺族の援護に奔走。晩年は津田塾大学の理事としての仕事に情熱を傾けるが、津田梅子塾長の後任人事に一応の決着をつけさせた大正8年、急逝した。
享年60歳。

墓は栃木県那須郡西那須野町大山家墓地。
 

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
伊藤光子さん著
「大山捨松」『幕末・会津藩士銘々伝』新人物往来社 所収




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