柴 太一郎
しば・たいちろう



(1839〜1923)


会津藩士。
名は盛道。秀次とも称し、また松島翠庵とも称した。
柴佐多蔵由道(280石)の長男。四郎・五郎の長兄。
文久2年、主君容保が京都守護職に就任したため、家老田中土佐、公用人野村左兵衛らと共に命を受けて事前に上洛し、在任の準備をするとともに京都内外の情勢を視察する。京都滞在中は公用局の局員として活躍し、伊勢松坂の世古格太郎の紹介で三条実美(転法輪家)に面会し、容保の真情を説明した。これが機縁となって、その後も会津藩士たちが転法輪家に出入して諸事を談じ、公武間の融和のために尽力。
戊辰の役には軍事奉行添役として越後方面に従軍し、各地に転戦して負傷、戦後、東京に送られて謹慎した。
明治3年、斗南に移住。藩庁に出仕したが、食糧購入の代金を横領されたため、その責任をとって禁固刑に服した。
のち、下北郡長・大沼郡長・南会津郡長などを歴任し、30年に退任した。大正12年4月28日没、85歳。
恵倫寺裏山に墓がある。


参考
柴五郎氏著『ある明治人の記録』中央公論社
『幕末維新人名事典』新人物往来社
前田宣裕氏著『会津戦争の群像』歴史春秋社
間島勲氏著「会津藩士人名小事典」歴史春秋社『幕末会津藩』所収



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