柴 五郎
しば・ごろう




(1859〜1945)


会津初の陸軍大将。
会津藩士280石の柴佐多蔵の五男として若松城下に生まれる。
日新館に学ぶが、戊辰の戦乱のため日ならずして休校。
新政府軍の若松城下侵入に先立ち、郭外の沢集落にあった柴家の山荘へ難を逃れたが、家に残った母・妹が自刃した。
会津戦争中は面川に潜んでいたが、当時村の子供たちと柿売りをして遊んだ懐旧の歌碑が国道118号線沿いに残っている。
八歳の時、斗南藩へ転封。どん底の開拓生活で一家は辛酸をなめた。後に斗南藩時代を書いた「野辺地日記」、不屈の生涯を書いた「ある明治人の記録」などの著がある。
廃藩後、上京して陸軍幼年学校・士官学校へと進み、明治32年(1899)の義和団の乱には北京で籠城。各国公使に推されて指揮をとり、日本の名誉を高らしめた。
日清戦争で少佐、日露戦争では聯隊長として活躍。重砲兵第二旅団長を経て大正2年(1913)陸軍中将。大正6年には若松連隊の敷地内に、家族殉難の地としてヒマラヤ杉を植え、囲い石には「柴家邸宅之跡」「遺児 陸軍中将 柴五郎」と刻んでいる。
大正8年(1919)陸軍大将。12年予備役となる。
昭和20年(1945)、敗戦の報に接して参内。
12月13日に東京上野毛の自宅で亡くなった。
なお、実兄の柴四朗は文人・政治家として名をなした。

参考
柴五郎氏著『ある明治人の記録』中央公論社
前田宣裕氏著『会津戦争の群像』歴史春秋社



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