斉藤 和節
さいとう・かずせつ



(1813〜1876)


若松城下・常慶町の商家に生まれ、父親と同じく澤田名垂に和歌を学んだ。のちには野矢常方に指示、小川清流や星暁邨と相研磨した。また好人物で書籍を数千巻集めたが、戊辰の兵乱で殆ど失った。
戦乱中は城南の面川村沢に避難して辛酸をなめたが、戦後約100巻の貴重資料『耳目集』を残し、また『戊辰戦乱避難の気』を書いた。
余生は歌道に精進。
墓は会津若松市七日町の車川山光明寺にある。


参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社




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