西郷 勇左衛門
さいごう・ゆうざえもん



(1812〜1896)


会津藩士。
西郷源吾近遠の長男として生まれる。名は近潔。はじめ源之助・文吾と称し、元治元年(1864)に勇左衛門と改める。後に礫洲と号す。
初代は西郷頼母家の初代頼母近房の孫にあたる頼母近張の三男勇左衛門近智(300石)。2代勇左衛門近林のときに加増されて500石。勇左衛門近潔は4代目で、若年寄に昇任した際に700石となっている。
大内流槍術の師範をつとめ、歌道を野矢常方に学ぶ。家禄500石(のちに700石)を継ぎ、奉行職から若年寄に進む。
戊辰戦争の際は越後口の指揮官として出陣していたが、添役の秋月悌次郎との折り合いが悪かったらしく、ほどなく城中に召還された。
戦後は東京の講武所において謹慎し、謹慎中は藩士の代表として様々な分野で新政府に折衝し、藩士たちの生活環境の向上等に尽力する。
1870年(明治3年)赦されて会津に帰るも松平家再興後は斗南に移住せず、若松に戻って戦傷死した長男・刑部はじめ自刃した家族の菩提を弔いつつ暮らし、河沼郡・耶麻郡等の小学校教員となって生計を立てた。旧会津藩士中村清之助の娘セイ子と再婚している。
明治29年2月25日没、85歳であった。

墓は福島県耶麻郡山都町泉福寺。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
間島勲氏著
「西郷勇左衛門」『幕末・会津藩士銘々伝』新人物往来社 所収




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