佐川 主殿
さがわ・とのも
(生没年不詳 |
会津藩士。 佐川幸右衛門(300石)の三男。長兄は後の家老・官兵衛。 会津藩を脱藩し、幕府軍工作のため、秋月登之助らと第七連隊に入る。明治元年3月、すでに旧幕兵の脱走の動きが活発になっていた。 会津藩士・小池周吾が、脱走兵5,60名を率いて船橋あたりを徘徊していた。佐川は各隊が小分立するのは得策でないと考え、説得しようとした。3月21日、石黒恒松とともに小池に面会を求めたが会えず、下士四条某なるものに会い、小池に伝えたが聞かなかった。翌日、船で帰り、夕刻、日本橋の某料理屋で、暴漢を諌めたところ彼らが抜刀して佐川に傷を負わせ逃げ、帰路第七連隊に某料理屋に暴漢ありと告げた。 14,5名の隊員が来て乱闘となり佐川、石黒はともに重傷を負った。彼等は佐川と同隊の者であったが、秋月登之助が来て、始めて佐川、石黒であることがわかり、百方手を尽くしたが、佐川主殿はついに絶命した。 参考 大塚実氏著『悲劇の会津人』新人物往来社 |
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