佐川 官兵衛
さがわ・かんべえ



    
(1831〜1877)


会津藩士。
天保二年、若松城下五軒町で物頭・佐川幸右衛門の長男として生まれ名は直清。 初代佐川勘兵衛直成は保科正之に仕えて1000石を拝領したが、後嗣がなく断絶するところを保科正之の配慮で有馬家から養子を入れて家名を継がせ、以降300石物頭の家柄として佐川家は幕末まで続くこととなる。幕末の官兵衛直清はその8代目。幼名、勝。25歳の時に父の死去にともなって家禄300石を継ぎ、卓越した剣技と馬術によって頭角をあらわす。後に山川大蔵が「人望は薩摩における西郷のようだ」と評する程の人物で性格は直情的、信義に厚く、剣は一刀流溝口派で和歌もたしなんだ。
安政年間の江戸勤番中、火災の消火作業中の混乱が原因ながら幕府旗本1名をを斬り倒すという事件を起こしたため、100石を減俸の上物頭を罷免され、国許に謹慎の身となる。
この間、藩主容保が京都守護職を命じられ、1000名の藩士を従えて上京したが、官兵衛が謹慎を解かれて上京するのは4年後の慶応2年(1866)のことであった。
その後、学校奉行に転じ、諸生組隊長、元治元年新たに編成された別選組の隊長を兼ね、京洛の間に「鬼佐川」の勇名をとどろかせた。
鳥羽・伏見の戦いでは力戦し、別選組を率いて奮戦、右目を負傷しながら少しも怯まず、白刃を手に獅子奮迅の活躍、をする勇姿は「鬼官兵衛」として畏怖され、淀城退却時、負傷した目を陽光から守るため両天傘をさし悠然と淀大橋を渡ったエピソードもあり尊敬された。

会津戦争では家老である一ノ瀬要人北越口総督のもとで朱雀士中四番隊の隊長として北越戦線に従軍、長岡藩軍事総督の河井継之助と当初衝突しながら堂々と渡り合って提携するなど、事実上この方面の総指揮官であった。この北越戦線における佐川朱雀隊の活躍は目覚しく、「一に桑名、二に衝鋒、三に佐川の朱雀隊」とその精強さを賞されている。慶応4年7月29日、長岡城が再落城し河井が重傷を負って戦線を離脱すると、北越方面の長岡藩軍事力は一気に縮小、会津兵をはじめとした列藩同盟軍は後退を余儀なくされる。官兵衛は各地に拡散していた会津部隊を収容しながら会津藩領の東蒲原郡小松村まで撤退し、そこで部隊の立直しと再攻撃の準備をしようとしたが、本城から帰城命令が届いたため隊を町野主水に託して単身鶴ヶ城に戻った。
若松到着後400石加増のうえ若年寄となり、本城の守備を託される。8月21日に母成が突破され、ついに23日籠城戦に突入すると、28日にさらに300石加増されて1000石の家老となり、1000名の部隊を率いた大突出作戦の総督に任命される。この出撃の朝、前夜の大酒により寝過ごして出撃時刻が遅れてしまった話は有名。突出部隊は長命寺付近での大激戦を経て城南の糧道を確保し、以後ほぼ一ヶ月の籠城を可能なものとした。
その後開城まで南方でゲリラ戦を展開するが、この間の「秀長寺の戦い」は、北方の「熊倉の戦い」とともに、会津戦争中の数少ない大勝利戦であったといわれている。
明治元年、田島在陣中に容保から親書が届き武装解除後、塩川で謹慎。
その後明治三年、斗南に移住を経て明治六年、会津若松に帰り、会津の耶麻郡大都村で隠棲していたが、明治6年に唯一の陸軍大将である西郷隆盛が下野し、これに私淑する薩摩藩士たちが一斉に公職を捨てて鹿児島に帰郷してしまったため世情は極めて不穏な情勢となり、治安維持のための警察力強化を痛感した川路大警視が強力に官兵衛の警視庁奉職を要請。当初、警視庁奉職に消極的であった官兵衛であったが、川路らの再三の要請と周囲の生活苦にあえぐ旧会津藩士たちの要望もあり、ついに明治7年、決意し300余名の旧会津藩士を率いて警視庁に奉職、一等大警部となる。
明治10年、西南戦争に警視隊檜垣直枝権少警視麾下の5個小隊のうち第1小隊長兼指揮長として従軍。佐川隊は善戦するが、指揮官檜垣の優柔不断によって窮地に陥り、二重峠付近黒川村で「君がため都の空を打ちいでて 阿蘇山麓に身は露となる」の辞世を残して壮絶な戦死を遂げた。敵将と剣による一騎打ちの最中に、藪陰から狙撃され三発の銃弾により戦死したという。
享年47歳。
墓は大分県松栄山護国神社境内警視局墓地。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
塩谷七重郎氏著「佐川官兵衛」
間島勲氏著「会津藩士人名小事典」歴史春秋社『幕末会津藩』
『幕末・会津藩士銘々伝』新人物往来社 所収




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