伊東 左太夫
いとう・さだゆう
(1826〜1871) |
会津藩士。 名は祐順(すけより)、図書とも称し、寛堂と号す。伊東慎吾祐辰(家禄130石)の長男。藩校日新館で学ぶとともに宗川儀八郎(茂)にも師事、14歳で日新館の講釈所(大学校)に入った。藩から江戸の昌平黌に遊学の内命があったとき、学業は日新館で充分だといって辞退したという。。家禄を継ぎ、儒者見習・用所密事頭取を経て大目付となる。文久2年藩主容保が京都守護職に就任したため従って公用人として京都へ赴く。 戊辰戦争の際は米沢藩等へ使いした。鶴ヶ城開城後、大沢村に閉居して子弟を教育していたところ、明治2年秋、天山公(容保の養子喜徳)の侍講として東京に召し出された。 同4年4月15日、心臓病のため急逝、46歳。 聡明院英俊智達居士。 飯盛山で自刃した白虎隊士・伊東梯次郎は、左太夫の二男。 実父俊吾も戊辰の役に戦死した。 墓は会津若松市東山天寧寺。 参考 『幕末維新人名事典』新人物往来社 |
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