飯沼 貞吉
いいぬま・さだきち



 


(1854〜1931)


白虎士中二番隊自刃隊士。唯一の蘇生者。
若松城下、大町通り会津藩世臣450石飯沼時衛の次男。戊辰戦争時、飯盛山で自刃した白虎隊士20人中唯一の蘇生者。のちに貞雄と改名。
父・時衛の妹・千重子は一族自決を遂げた西郷頼母夫人である。
母ふみは西郷家出身で母の妹えん(唐衣)は山川家に嫁ぎ、浩・健次郎・捨松を生む。
元来体が大きく、学業が優秀であったため15歳であったところを16歳と偽り白虎隊に入隊する。
出陣に際して母・ふみが「梓弓 むこふ矢先はしげくとも ひきな返しそ もののふの道」と短冊にしるし、貞吉の襟に縫いこんだ。
隊士らと前線に出て敗退、飯盛山で仲間と自決する。
しかし喉元に刺さった脇差が何かに支えて動かない。手探りに柄を岩石にあて、傍に生えていたつつじの根株を掴み、満身の力をこめてつっぷした。そしてそのまま気を失った。
通説、蘇生した貞吉を発見して喜多方まで避難させたのは印出新蔵の妻であるハツということになっているが、自刃隊士たちの持ち物を狙った盗人によって八ヶ森という別の場所に置き去りにされていたところを、慶山村の渡部佐平という者が発見し、その長男の嫁である「おむめ」と佐平のところに避難しに来ていた印出ハツとが2人で救助したという記録も残っている。ことに「おむめ」は袋山の岩屋で三日三晩ほとんど寝ずに介抱したという。その後、佐平に託されたハツによって塩川を経て喜多方へ至り、沼尻の不動堂へ潜んでハツの介護を受けつつ終戦を迎えている。戦後、猪苗代亀ヶ城の謹慎地に姿を現し、遠山景守や藤沢啓治などの白虎隊隊士たちに自刃の状況を語った。
東京の謹慎地から長州藩士の楢崎与兵衛に連れられて萩へ行ったという話もあり、楢崎の実家には貞吉にまつわる話も伝わっているとのことだが実態は未詳である。
静岡の林三郎塾で学び、1873年工部省技術教場に入所し電信技士の道を歩む。明治5年には工部省から電信事業の官職に就く辞令が交付されている。明治14年、広島県士族の娘、松尾レンと結婚。明治20年に逓信省工務局第一課長に昇進、同27年6月には日清戦争に従軍し、通信網敷設に大きな役割を果たした。明治42年、仙台逓信通信管理局部長。大正2年、高等官三等二級従五位勲四等に叙せられ、同年6月退官、8月正五位を賜る。
昭和6年、仙台で没。
享年78。
生前、永眠の地は懐かしい友らの眠る故郷会津の地であることを密かな念願としていたが、心ない同郷人からの「おめおめと生き残った恥さらし」という無言の罵声によって、ついにその地を会津に求められず、わずかにその遺言に「会津からの希望があれば贈ってもよい」と遺髪と義歯を遺すのみであった。そしてその希望は、没後26年を経た昭和32年、会津若松市により「戊辰戦争後90年祭」が挙行されるにあたり、ようやく成就される。現在、飯盛山にある「飯沼貞雄之墓」がこれである。
墓は宮城県仙台市北山町の輪王寺と福島県会津若松市一箕町飯盛山。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社

秋月一江さん著
「飯沼貞吉救助の実証を追って」『会津史談第50号』所収
佐藤一男氏著「飯沼貞吉」 
『幕末・会津藩士銘々伝』新人物往来社 所収 




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