海老名 リン
えびな・りん




(1849〜1909)


嘉永2年(1849)、日向新助・まつ夫婦の娘として若松小田垣に生まれる。慶応元年(1865)11月、17歳で軍事奉行・海老名季久の長男季昌と結婚。
慶応4年8月23日、西軍が城下を急襲して来た際は負傷入院中であった父を見舞っていたため鶴ヶ城に入城できず、やむを得ず高田へ避難し、その地で終戦を迎えた。一時は家族一同での自刃を考えたが、星暁村の必死の説得に辛うじて思いとどまったという。
戦後、斗南三戸に移住。艱難辛苦の生活に耐えつつ、夫季昌の赦免を待った。
明治5年(1872)ようやく帰って来た季昌は青森県授産係に奉職するが、4ヵ月後に辞職して単身上京。その後再度青森県に三戸支所詰十等出仕として呼び戻されるが、かつての仲間たちが周囲で苦しい生活を送っているのに自分らのみが公職について安定した生活を得ることに耐えられず、再び辞職して上京する。リンも後を追って明治6年に上京した。明治8年、季昌は警視庁に奉職。山形県令となった三島通庸に認められて、山形県の西村山郡長・県庶務課長などに抜擢される。この山形時代、リンは長女モトを生んでいる。三島が福島県令に転じると、季昌・リン一家も福島へ転出し、季昌は福島県一等属庶務課長を始めとして信夫・北会津・石川各郡の郡長を歴任した。明治18年(1885)、三島の警視総監就任にともない、季昌も上京、警視庁課長・警視属に昇進し、リンもまた娘を連れて上京する。この上京後の明治21年3月3日、リンは東京霊南坂教会でキリスト教の洗礼を受けている。以降、リンのクリスチャンとしての活動が始まった。キリスト教の婦人団体である東京婦人矯風会に入会、会計や風俗部長を経て副会頭にも就任する。雑誌『婦人新報』の編集にも携わり、会計責任者となった。この間、夫季昌はリンのキリスト教活動に猛反対で、この頃が夫婦最大の危機であったという。明治26年4月4日、すでに警視庁を退職していた季昌とともに会津に帰って来たリンは、甲賀町口石垣北に私立若松幼稚園を開園する。翌27年に第1分園を、38年には第2分園を開園させ、季昌の協力も得て幼稚園経営はようやく軌道に乗った。この間、女子の教育の必要性を強く感じていたリンは、26年7月12日に若松幼稚園の片隅に私立若松女学校をも開校させている。開校当初の生徒は、わずかに4名であったという。27年、北村モトが創立した会津女子職業学校を引き継ぎ、翌年私立会津女学校と改称。38年若松市に移管し、若松市立女子技芸学校となった。この学校がリンの念願であった高等女学校「県立会津高等女学校」となるのは明治42年5月1日のことである。しかしながら、それに先立つことわずか半月の4月20日、リンは家族に看取られながら息を引取っている。
享年61。

参考
『幕末・会津藩士銘々伝』新人物往来社 所収



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