大庭 恭平
おおば・きょうへい



(1830〜1902)


会津藩士。
正吾弘訓の次男。江戸の会津藩邸に生まれる。名は機(はるか)。景範。号は松斎。詩・歌・書を善くした。
若くして江戸に出て後藤某に書を学び、詩文・和歌をよくし、また武芸を修めた。
文久2年、藩主容保が京都守護職となったため、藩命により家老・田中土佐、公用人・野村左兵衛らに従って事前に上洛し、京都内外の情勢を偵察する。その後、恭平は脱藩したことになっているが、どうやら容保か藩の首脳部から密命を受け攘夷浪士と交わり、挙動を探ったと伝えられる。1863年(文久3年)2月、同志らと等持院の足利将軍3代の木造の首を斬って三条河原に梟し、暗に江戸幕府の態度を批判した。このため、恭平は捕えられて信州上田藩に幽閉される。のち赦されて会津に帰り、戊辰の役には古屋作左衛門の衝鋒隊の軍監として越後口へ従軍した。
のちに仙台を経て庄内藩に向かう。
維新後、越後高田に謹慎ののち、会津藩戦死者の埋葬に力を尽くした。秋田・青森県の官職につき、退官後は函館に閉居して明治35年1月5日室蘭で病没。

享年73歳。
墓所は不明。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社




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