井上 丘隅
いのうえ・おかずみ



(1815〜1868)


幼少寄合組中隊頭会津藩士。
甲賀町郭門南の邸で生まれる。禄高600石。
藩主松平容保が京都守護職に就任し京に上洛した時丘隅も上洛し、守護職邸に勤務し、鳥羽・伏見の敗戦後帰藩。
戊辰戦争時は無役ながら幼少組頭。白河口の戦いで負傷し、傷も治らないうちに10月8日(旧暦:慶応4年8月23日)滝沢口に出陣。利あらずして甲賀町郭門まで退き、この門を死守しようと善戦するが、敵弾を受けて負傷し、やむなく近くの五ノ丁角の自邸へ辿り着くと神保家に嫁に出ていた次女の雪子も戻り、家族が自刃を遂げようとしていた。
丘隅も負傷していたので、すぐさま自刃しようとしたが、雪子は既に神保家に嫁いでいたので、「例え修理殿が生存してなくともお前はあくまで神保家の嫁として神保家と行動を共にしなさい」と婚家に帰ることを勧め、家を出るのを見届けてから妻トメ・長女チカとともに自刃した。
ちなみに雪子はのちに娘子隊に参加し、自刃している。
享年54。
墓は福島県会津若松市七日町阿弥陀寺「戦士墓」に合祀。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社



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