小笠原 午橋
おがさわら・ごきょう



(1822〜1881)


会津藩士。
長坂勝満の次男。通称は常次郎。名は勝修。号は雄山とも。
昌平黌に学び、日新館の教授となる。書や文章を善くし、若松開城にあたって謝罪状の草案を書いた。
維新後は姓を小笠原に改める。1870年(明治3年)東京府の学識。のちに開拓使に出仕。病のため辞す。『続国史略後篇』『愛国偉績』を著す。
1880年(明治13年)栃木に遊び、翌年客死。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社




戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送