野矢 常方
のや・つねかた
(1802〜1868) |
会津藩士。 享和2年(1802)、若松城下の水主(かこ)町に生まれる。通称与八、号は涼斎・蓼園・蜉蝣翁。叔父の志賀重方に宝蔵院流高田派の槍、澤田名垂に和歌を学んで文武に秀でた。20代の頃、「熊の如き」偉丈夫に生長し、叔父の志賀重方について、黒河内伝五郎や町田伝蔵らとともに山陽・山陰・九州方面へ武者修行に出向く。このとき、久留米藩との試合で会津勢全勝のエピソードを残している。和歌では沢田名垂の高弟で「君がため 散れと教えて 己まず 嵐にむかう 桜井の里」という楠木正成父子の故事を詠んだ歌は特に有名。重方の死後日新館の槍術師範、また名垂の跡を継いで同和学所の師範となり、藩主・松平容敬・容保に侍詠している。 会津戦争時は67歳という高齢のため正規軍には属していなかったが、自宅近くの桂林寺町口郭門で敵軍を迎え撃ち、敵兵1人を見事槍で串刺しにした直後に戦死した。その槍の先に結び付けられていた歌「弓矢とる身にこそ知らぬ時ありて ちるを盛りの山桜花」。 戦後、長男の良助らが遺体を捜したが見つからず、菩提寺の大運寺の墓には遺詠が納められているという。 『山路の苞』『蓼園集』の著書があり、諏方神社境内に歌碑がある。 墓は福島県会津若松市大運寺。 参考 『幕末維新人名事典』新人物往来社 前田宣裕氏著 「野矢常方」『幕末・会津藩士銘々伝』新人物往来社 所収 |
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