山川 浩
やまかわ・ひろし



    

 
(1845〜1898)


会津藩家老。
弘化2年(1845)11月6日生まれ。幼名与七郎。会津藩士時代は大蔵(おおくら)と称し、明治期に浩と改名。
父・山川尚江重固を16歳の時に亡くし、祖父である元家老・山川兵衛重英の影響を強く受ける。祖父・重英(しげふさ)は、300石から一代で1000石の家老まで栄進した俊英である。
大蔵、18歳で物頭となり、文久3年には守護職として京にある藩主容保の君側に奏者番として侍した。当時激烈な攘夷主義者であったが、その狭隘な視野を広めさせようと外島機兵衛・広沢安任らが画策し、慶応2年(1866)10月、幕府の外国奉行・小出大和守の随行員として欧州に派遣させられる。この洋行によって開明的な思想を得て大きく変貌したという。
慶応4年、鳥羽伏見戦では敗兵を収容し、大砲隊を率いて江戸へ戻り、さらに会津へ戻った後は砲兵隊長として日光口へ出陣している。日光口では大鳥圭介率いる伝習隊と合し、自らは副総督として戦線についた。以来、日光口は頑として西軍の進軍を寄せ付けなかったため、西軍の将である土佐の谷干城が「やけに強いが、会津方の大将はいったい誰だ」と訊いたという話が残っている。ほどなく白河口が危うくなり、8月20日頃に若松本城への帰還命令が届いた。軍を転回し、急行軍して若松城下まで戻ったが、すでにその時城下には西軍が満ちていた。この際に取られた入城作戦が、有名な「彼岸獅子入城」である。入城後、家老に昇格していた大蔵は鶴ヶ城防衛の軍事を統轄する立場に就いた。
戦後、斗南藩の権大参事を経て、1ケ月だけ青森県に出仕した後に上京し、日光口での相手であった谷干城の紹介で陸軍へ奉職することが決まる。
明治6年12月4日、少佐に任じられて熊本鎮台に赴任。
翌7年の佐賀の乱では鎮圧出兵中に左腕に貫通銃創を負っている。
乱後、中佐。
明治10年の西南戦争の際、別働第二旅団参謀として熊本城救援に向かい、見事これを成功させて城兵を54日間の籠城から開放するが、指揮官山田顕義は「命令違犯だ」として激しく浩を叱責したという。
明治19年、陸軍少将。山県有朋が「山川は会津ではないか」と不快感を表したことは有名。
初代高等師範学校長、貴族院議員、男爵。
著書『京都守護職始末』は、幕末会津藩の大義名分を明らかにした。
明治31年(1898)2月4日東京麹町の自宅で没す。
享年54。
墓は東京都港区青山霊園山川家墓地。


参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
襲田健氏著「山川浩」『幕末・会津藩士銘々伝』新人物往来社 所収




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