野村 左兵衛
のむら・さひょうえ



(1815〜1867)


会津藩の公用人。
野村佐馬丞直樹の長男として生まれ、名は直臣。はじめ源蔵、雅若。呼び方は「さひょうえ」とも「さへい」とも。家禄400石を継ぎ、のちに550石となる。
軍事奉行を経て安政6年(1859)江戸の留守居役となり、文久2年藩主・容保が京都守護職を拝命すると、公用人の筆頭に任命される。容保の上洛に先立って、家老の田中土佐および数名の公用方とともに上洛して情勢を視察し、各藩の有志と交わって在任の準備をする。柴太一郎の先導によって三条実美に面会し、容保の意向を伝えるとともに、公武間の融和についても尽力することを話す。
人物が温厚で洒脱、和歌にも巧みであったため周囲の人々からは「先生」と呼ばれて敬意を払われていたという。
同会津藩士・井上丘隅の長女ちか子(チカとも)と結婚していたという説もあるが事実を証明する物はない。
慶応3年5月19日在任中京都で病没したとする説と鳥羽・伏見の戦いで討死したとする説がある。
享年53歳。
「のりならす駒のひづめのかほるまで 並木の桜はる風のふく」は左兵衛の作として有名である。
墓は京都市左京区黒谷会津墓地。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
間島勲氏著「会津藩士人名小事典」歴史春秋社『幕末会津藩』所収




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