松平 喜徳
まつだいら・のぶのり



(1855〜1891)


第10代会津藩主。9代松平容保の養子。水戸徳川家の当主・斉昭の第19子。幼名余九磨。字は子札、号は天山、有隣堂。
当初、容保の養子には喜徳の兄である余八磨(後の徳川昭武)が内定していたが、将軍慶喜の意向で余九磨に変更された。
慶応4年(1868)2月、容保の隠居謹慎によって14歳で家督を相続、松平若狭守を名乗る。
戊辰戦争勃発時は国許会津に戻り5月に白虎隊を率いて福良(現・郡山市湖南町)へ出陣した。
篭城戦では養父・容保と行動を共にし、明治元年(1868)9月22日に藩を代表して降伏。
会津戦争終結後、滝沢村の妙国寺に容保とともに謹慎、間もなく東京に移され久留米藩有馬家に永預となる。
明治2年(1869)6月、養父・容保に実子(慶三郎、のちの容大)が生まれ、11月には慶三郎の名で会津松平家の再興が許された。このため喜徳は明治5年の1月に正式に赦免されたのち、明治6年8月に実家の水戸徳川家へ復籍、すぐに水戸家の支藩である常陸松川の松平家を継ぐこととなる。同年10月、従五位。
明治9年10月、フランスへ留学するが、ほどなく健康を害して帰国。明治13年には従四位、17年子爵。
明治24年(1891)6月3日、東京本所外手町の邸で病のために波乱の生涯を閉じる。

参考
前田宣裕氏著『会津戦争の群像』歴史春秋社




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