秋月 登之助
あきづき・のぼりのすけ



生没年不詳


会津藩士。
田島代官・江上又八嫡男(16石3人扶持)。太郎と称した。
勇志に富み、将の器であった。幕末、江戸にあって広く幕府や他藩の要人らと親交を結び、会津藩の名誉回復につとめたが事ならず、幕軍の第7連隊に転入した。大鳥圭介らとはかって江戸城立て籠もり義兵を挙げて西軍を江戸から追い払おうと計画したが、これも果せなかった。やがて大鳥圭介が幕軍2千余名を率いて会津へ向け北上することになり、登之助は推されて伝習第一大隊長となり、新選組副長土方歳三は彼の下にあって参謀役をつとめた。総野の戦い、特に宇都宮城の攻防戦において大いに活躍したのち、藤原口から田島に入り、若松城に入った。8月23日、母成峠破れ西軍が若松の城下に殺到した際、登之助は二の丸にあって馬上から「君恩に報ずるのはこの時である。婦人は内へ、男は外へ出て戦うべし」と絶叫しながら遊軍を叱咤激励する姿を間瀬みつに目撃されているが、その後の消息は知られていない。

参考
小島一男氏著『会津人物事典(武人編)』歴史春秋社




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